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TECHLOID出張所

東工大ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID宣伝用

【超ボーマス】補論【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

 

(本論に対しての『補論』です。先に本論を読むことをお勧め致しますが、特に読まなくても土台は理解可能です)

初音ミクを殺すための101の方法(前半) - nemoexmachina’s diary

初音ミクを殺すための101の方法(後半) - nemoexmachina’s diary

 

 

 

 本論において取り上げなかったいくつかの外延的な事柄について言及する。

 

1,個人的価値と社会的価値について

 価値を二つに分けてひとつをブラックボックス化し、もう一つの挙動を客観的に観測可能なものとする。社会システム理論において人間(=心的システム)をコミュニケーションから切り離し、ブラックボックス化したのと同じように。価値の一つ目は個人的価値でそれは個人の内面において測られる価値だ。外部からはその存在をリアルに計測できず、どんなに言葉を尽くされたとしてもその本質までは伝わらない、あなただけの価値だ。もう一つは社会的価値でコミュニケーション上において客観的に計測される評価の高さの総計を示す。実際には本人らが内心(=個人的価値)どう思っていても口や文からのみ示される価値である。
 このように分けて社会的価値のみを扱うことで、作品の価値をいくらか客観的に測ることが出来る。その客観性は第三者から見ての客観性をかなりの部分まで保証する。すなわちタイトル名さえ知らないが他者の作品への言及のみを閲覧する第三者によって推測されるだろうその作品の価値である。どれほどの人格がその作品へと言及しているか、言及内容、美点と欠点、それらを賞賛したり貶めたりする言葉の熱意。もちろん言及内容からの印象は読み手によって違うだろうため、いくらかは曖昧だろうが客観的なデータにするとしてこれほどに正確なものは他にないだろう。
 対して、個人的価値は救いようがないほどに客観性を持たない。まず個人的な価値それ自体が作品そのもの以外から、様々な影響を受ける。ストーリーを読むときの体調、機嫌、環境の差は有意に感想の良し悪しに影響する。しかもその感情は誰かと共有することも出来ず、宗教的体験と大差なくこれを絶対視することは神秘主義のそれに近い。
 このように価値を二分した上で作品の価値というものを改めて定めると、それは事後的に計測される社会的価値だと言える。即ちそれはあくまで作品が人々に受け入れられたあとの感想を計測した結果であり、作品そのものから受ける個人的な価値とは何ら関係ない統計的事実なのである。
 しかしそうすると熟練の消費ユーザーが特定の作品についてこれは売れると予測を立て、その予測が概ね有意に正確であるのはどうしてだろう。これは個人的価値がある程度の客観性を持ち、いわゆる一般的な価値観とその人の価値観の符合が大きいためではないか。それならば作品の価値に対しても一般的価値観からの評価を基準にして事前に作品そのものの価値を計測することが可能なのではないか。そのような反論が当然に予想されるがこれも事後的なデータからの統計的予測として説明ができる。つまり売れた作品、評価された作品の特徴を機械的に取り出してサンプルとの一致度合いから予測内容を決定するのである。もちろん実際には本人の個人的価値が大きく影響しているだろうが、その価値基準まで含めてテストケースから学習したものと考える方が客観性の高い説明を可能にする。
 すべての作品は価値を内包しない。それは実際に多数の人間に消費されたあとに、そのコミュニケーション上において観測されるものなのだ。


2,二つの価値の変換可能性について

 これら二つの価値は互換性があるのだろうか。正確なところをいえば心的システムと社会システムの関係と同様に、これらは構造的カップリングの関係にあって社会的価値は個人的価値にのみ誘発されると言える。もう少し個人の実感に基づいて説明するなら以下のようになる。
 あなたの個人的価値は社会的価値に変換されうる。それはあなた以外には絶対に出来ない、あなただけが顕現できる価値だ。その方法は表現することを除いて方法はない。あなたはあなたの感動を言葉にし、比喩を重ね、行動に示すことで、あなたの感じた価値を誰にでも認められうる価値へと変換できるのだ。
 コミュニケーション上の評価を社会的価値としたが、コミュニケーションにはもちろん非言語的、非直接的なものも含まれている。例えば消費行動であり布教行為。何なら毎日特定の時間にその作品名を絶叫するといった行為ですら構わない。そのコミュニケーション上の価値を観測することで第三者はその作品の価値を予測する。もちろんあなた自身への評価もその予測に影響する。あなたが普段から滅多に作品を評価しないなら、初めての熱狂的評価を表現することは客観的に多大な価値を持つ。ここで重要なのは変換された個人的価値は他の誰の評価でもなく、あなた自身が評価した価値であり、それはあなただけにしか表現し得ないものであるということである。あなたが表現しない限りその個人的価値は秘められたまま存在さえなかったことになるのである。
 では逆に社会的価値が個人的価値へと変換されることはあるのだろうか。まず一つにコミュニケーションのための作品消費がそれに当たる。即ち自分の周りで流行っているから話を合わせるために作品を消費するといった流れである。この時、作品は作品そのものの価値以上に話題についていけるという付加的な価値を持つ。
 二つ目は二次創作による読み替えである。作品そのもの以上に作品を介したコミュニケーション上の二次創作群に影響を受けて作品の見え方が変わり価値が付加されるといった流れである。これは本論の方で子空間として扱ったが空間内部のコミュニケーションから派生して発生するため子空間としては特殊なものと位置づけるのが適当かもしれない。話を戻すと、二次創作には直接的な作品制作を介しないものも含める。例えば艦これの検索汚染や作品中登場人物の口癖が流行るといったコミュニケーション上への影響はすべてこれに含める。
 社会的価値が個人的価値へと変換されるこの二つのあり方をよく示す例が淫夢ネタと呼ばれる特定のコミュニケーションだ。これはとある作品中のセリフやガジェットを細部に至るまで参照しながら会話やコメントの端々にそのリンクを混ぜるようなコミュニケーションで、そのネタを元にした作品群も多く存在する。このコンテンツが特筆に値するのは、一次作品に当たる『真夏の夜の淫夢と呼ばれるゲイ向けアダルトビデオ作品群そのものの存在を認知さえしていない人々にもアクセスされている点である。一次作品と二次作品の空間比率がこれほど大きい物はまずない。このコンテンツにおいて人々は例え同性愛に興味がなくともコミュニケーション上の必要や二次創作的な会話からの付加価値を通じて一次作品への評価を高める。


3,社会的価値の均一性について

 社会的な価値をコミュニケーションに定めることで得られる利点に、その価値の質と量をどちらも考慮に含めることが出来る点がある。
 まず質について。ある作品についての学問的に有意義な考察が提出されたとする。しかしそれが誰にも読まれなければもちろんその考察の社会的価値はほぼゼロだ。さらにそれが読まれたとしても殆どの人に理解されなければ同様。例えその考察がどんなに正しく、示唆に富んだものであったとしてもだ。逆に語彙の貧弱な支離滅裂で論旨も一貫しない、しかも作品の読解を誤っている感想があったとしよう。これを読んだ人間がその感想に感銘を受けてその作品への評価を変えるコミュニケーションをするなら、その低俗な感想は前述の高尚な考察以上の社会的価値を持つのである。もちろん作品をすでに消費した別の人がその低俗な感想を誤っていると判断して、それがコミュニケーション上において表現されるなら、その感想の社会的価値は再び変化するだろう。
 しかしここで重要なのはコミュニケーションの内容が正しかろうと誤っていようと、それがコミュニケーションにおいて現れる限りにおいてしか社会的価値として成立しない点である。更に言えばどんなに言葉を尽くした感想であれ、それ以上に一枚のキャラ絵が更なるコミュニケーションを誘発するなら、後者の方が社会的価値は高い。つまり批評や感想を二次創作と同列の価値として考えることが出来るのだ。
 次に量について。作品は話題性が高く、言及しやすい内容であるほど人口に膾炙する。例えば作品そのものの知名度は低くとも印象的なセリフや一場面だけが切り抜かれてオマージュや改変ネタが派生するといった流れである。その作品そのものに直接言及せずともそれらのコミュニケーションは作品本体へのリンクとして機能する。それが次なるその作品へのコミュニケーションを発生させるならそれは社会的価値である。


4,批評の価値について

 ここで批評について一度触れておく。この社会システム的な捉え方において批評の価値は正しいことではない。次なるコミュニケーションを産み出す限りにおいて、またそのコミュニケーションが作品への評価を高める限りにおいて価値が認められるのである。難しく高尚であることも簡易で低俗であることもそこに優劣はない。さながら空を飛んで生きるか地下に潜って生きるかの違いであり、それぞれに影響を与える対象が違うだけである。
 この文章とてそうである。この文章の読者諸賢が次にコミュニケーションを行うこととその影響の他一切、この文章に価値はない。
 つまるところ僕は、批評は二次創作であると主張するのだ。

 アナザーストーリー、読み替え、作品空間の拡張。それ以上でもそれ以下でもない。また本論でも記述したが、ひとつの批評が特権的な地位を与えられることにも否定的な立場を取る。
 ただしそれは批評が政治的な力を持たない限りにおいてである。例えば聖書やコーランの解釈は直接に国家間の関係に影響する。マルクスの解釈を巡って反目し合った社会主義国家がある。そのような緊張関係の元に解釈の価値というものを考えると、それは作品価値とはまた別のベクトルの政治的価値を産み出してしまう。この論において扱っているのは作品そのものの純粋な社会学的価値であり、政治的価値、経済的価値とは切り離されるものである。
 これは本論で取り上げなかったが、ルーマンの社会システム理論でいうところの個々の機能的部分システムの二元コード化にあたる。例のごとく乱暴な大雑把さで言えば、それぞれに固有の価値ベクトルが部分システム間では互いに理解し得ないものであるということだ。ここでは社会的価値のみを取り上げてコミュニケーションを構成しているが、同じ作品に対して政治的なコミュニケーションにおいては政治的な価値が、経済的なコミュニケーションにおいては経済的な価値が浮かび上がってくる。それらは簡単に比較できるものではなく優劣が付くものでもない。
 批評が政治的なものとして機能する限り、それはこの議論から外れたものとなる。その意味でまったく政治的でない、あるいは経済学的でない、あるいは宗教的でないといった批評はないのだろうし、すべての批評に優劣はないとする僕の主張は誤っている。しかしすべての批評が重大な政治性、法外に高い市場価値、神々しいまでの宗教性を持つわけではないのだから、その範囲においてまでは僕の主張は有効だと考える。


5,作品が取るべき戦略について

 コミュニケーションを作品の社会的価値とした。この時クリエイターが作品制作の際に取るべき戦略がいくつか定まる。消費ユーザーにとって作品消費の上でその作品をコミュニケーションの俎上に上げることはコストがかかる。金銭的なコスト以上に時間的コスト、そしてそれ以上にコミュニケーション的なコストがかかる。即ち相手に聞くだけの価値がある作品を提示出来なければ、それは結果として人格への評価そのものが損なわれる危険性を孕む。逆に言えば作品そのものを本人があまり評価していなくとも、別の一般的な価値がその作品に関して提示できればコストをいくらか抑えることが出来るのである。最近流行っているらしい、有名な人が制作に関わっているらしい、目新しい要素を内包しているらしい。そういった価値である。
 となればクリエイターは話題の俎上に上がるだけの何かを積極的に作品に付け加えるのが戦略として妥当なのではないだろうか。これの一部は話題性やコンテンツ力、フックと呼ばれる。もちろん中身のない記号的価値だけの作品ではいけないだろうが、話題性を提供するというのは作品が作品相応であれ不相応であれ、きちんと流通するための最低限のラインではないかと思われる。
 例えば初っ端からよくわからない自分語りを始めてみたり、大して理解してない学術的な後ろ盾を用意してみたり(参考文献がたったの一冊きり)、メジャーなものに下手な皮肉を撒き散らして過激な発言をしてみたり、101も方法を用意していないのにタイトルで誇張してみたり(しかもマイナーゲームタイトルのパクリである)、こんなふうに忘れられていた伏線を回収してみたり。


6,話し言葉的なコミュニケーションについて

 古い時代においては文字として伝わらなかった物語として、口承文学が最も多く流通した。慣用句や和歌が独特の言い回しや韻に従うのも暗記しやすさや口に出しやすさを優先したためだろう。もちろんそれらの短い言葉の裏には追加して説明するべき意味が多く含まれており、作品単体では上手く意味を読み取れないことが多い。説話にしろ、神話にしろ、そこまでが語られることを意図してあえて抽象的な事柄だけをストーリーの形にしている節がある。
 何故なら書き言葉と違って、口に出した言葉は声にした端から消えていってしまうものだからだ。すべてを書き留めることも、聞き手の理解に合わせて同じストーリーをくり返すことも難しい話し言葉を介する物語は、特殊な制約を受ける。それらは誰もの頭に残りやすい形に特化し、実用性のある教訓や帰属意識の強化といった機能、無意識に訴えかけるイメージなどを特徴として持つ。
 対して書き言葉における文学は何度も繰り返し読まれることや前項に戻ることを前提にする構成のストーリーを可能にする。人一人に語りきれない物語量でも構わず、一度に理解できない情報量を詰め込むことも許される。特に現代のネット社会においては紙のコストさえなくなったため、大量の文字が僕らの元へと情報を運ぶ。
 しかしネット上のそれは書かれた文字でありながらにして、言葉そのものの機能や特徴は話し言葉のそれへと後退している。僕らが文字として残したはずの情報は履歴としては残るものの、発した先から話し言葉同様に誰の目にも届かない画面外へと押し流されていく。ツイッターが最も象徴的であるが、書き残した言葉が再び参照されるためには他者のリツイートやリンク、自分の再掲示によるしかない。ネット上のコミュニケーションはまさに、言及が産み出す次なる言及が情報を保存しない限り、その情報は取りこぼされてしまうような空間なのだ。
 僕らはこの言語空間において、極度に忘却を恐れなければならない。検索結果に表示されないリンクの孤島となることを。言及の輪から外されてしまうことを。
 それは即ち、初めから存在していなかったことと同義なのだから。

 

参考文献:ゲオルク・クニール,アルミン・ナセヒ(1995)『ルーマン 社会システム理論』新泉社.

 

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。

【超ボーマス】初音ミクを殺すための101の方法(後半)【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

(前半からの続きです。先に前半をお読みください)

初音ミクを殺すための101の方法(前半) - nemoexmachina’s diary


【五】モデル検証

 

 次にこの極めて簡易なモデルが如何に現実の文化を説明できるかという部分に焦点を当てて、その内部構造に言及する。

 例えば日本文学という文化がある。これは広範な範囲を持つ単語であるが、ここではある程度の正確さを期待して、坪内逍遥の『小説神髄』以降に成立した近代日本文学を指すこととする。即ち西洋文学を親空間とする当時の知識人らをシステムとした、小空間である。ここで強調したいのは、近代日本文学がいわゆる翻訳ではなく日本独自の小説技法と日本語で書かれたオリジナルのストーリーであったことだ。つまり親空間の作品に対して変換作業が行われており、なおかつその変換作業過程においてオリジナルな創作(=親空間内の諸要素の配合)が付与されているという点で単なる翻訳に留まらない。
 このことを強調しておかなければ、大きな誤解を産むと思われる。即ちここでいう写像とは単なる技術的な変換であり、メディアミクスでいえば映画シナリオに一切手を加えない書籍化を指しているという誤解だ。そうではなく具体例をあげるなら二葉亭四迷の小説『浮雲』において親空間として招聘されているのはロシア文学のみではない。現実の明治日本をも親空間として小説内にその文化を写像しており、そのオリジナルな創作(=親空間内の諸要素の配合)が付与されている。
 これらのことに注意を傾ける必要があるのは何故か。それは創作は模倣に始まるものであるが、単なる模倣では評価は得られず、かつ新規性が与えられなければ消費ユーザーは量産コンテンツに飽きを感じ、その文化は枯渇してしまうからだ。当モデルはこの創作の根元部分を反映した構造となっている。
 例えば一人の人間がライトノベルを書こうとした時、ラノベの方法論にあたるものを盲目的に探り当てることはまず不可能で、他のライトノベル、あるいは指南書の類に学ぶだろう。これはシステム内に保存されている技術のノウハウ、写像変換の方法を学んでいるという段にあたる。その過程を通じてシステム内に組み込まれたその人は、果たしてラノベを書くことができようか。不可能である。
 ここで彼が学んだのはあくまで箇条書き的な方法論であることに注意されたい。起承転結をくっきり分ける。ヒロインは魅力的に、主人公は自己投影しやすく。このようなノウハウである。このモデルが創作において制約を課すのは、これとは別に親空間としての別空間、あるいは自空間を要請するという事実を反映した点だ。単純な技術の結晶であれば創作文化はすぐに枯渇する。奇抜な精神論的作品の数々が短期間のブームになったところで、新規性が薄れれば消費ユーザーは飽き、クリエイター側も既存作品の模倣ではない作品の生成に頭を悩ませる。古典作品の完全模倣をくり返すばかりであっても実用性という別のベクトルの価値を得られなかった文化はブランドとしての機能、あるいは国からの保護をもってして細々と続くのが精々であろう。そしてそのような文化はこのいわゆる情報化社会においての言及を集めず、空間自体が希薄になりやがては消失に至る。
 話を例に戻して、先進空間と発展途上空間の違いについて述べる。ラノベの方法論を学んだ彼がさて、親空間としていくつかの空間を定めようとする。例えばそれは現実であり、彼自身の経験や人伝に聞いた他人の経験、ニュース。あるいは日本文学であり漫画文学であるかもしれない。
 先進空間と発展途上空間の違いについて自文化を親空間と定めることが出来るか否かであると先述した。
 例に即して言えば、ラノベしか読んだことのない人間がラノベを書けるかということになる。そしてラノベクリエイターのうちの大多数がラノベ以外の文化に学ばずにそのラノベ文化を維持できるかということになる。ここで当モデルにおいて指摘されるべきなのは、システムに保存される技術的なノウハウと親空間から写像元として参照する文化は別ものとして扱っていることであり、しかし厳密にそれらは区別されるものではないということである。当モデルにおいては個別的な例外にまで対応しうる厳密さは期待されておらず、あくまで全体としての文化を捉えるための視野を確保するものである。そのため多くの事象はファジィに把握されており、定義そのものも確たる線引を用いない。
 同様にして、先進空間と発展途上空間の間にもはっきりとした区別はなく移行過程もあるし、現実に存在する文化のほとんどがそれだと言うこともできる。しかしいくらファジィな定義とはいえ、ラノベ空間はラノベシステムにおいて極稀にラノベにしか学ばないラノベクリエイターがいることは許容できても、ラノベクリエイターの大多数がラノベにしか学ばないことは許容できない。これは文化自体の強度(=過去の蓄積の浅さ)が消費ユーザー側が新規性を求め、かつ既知性を欲望するという事実を通して許容しないのだ。
 ここで一度、このモデルが想定している消費ユーザー(=子空間内のコミュニケーションの総体)像について言及する。この消費ユーザーは大きく分けて二つの欲望ベクトルを持っておりそれらは独立している。ひとつは新規性で、既存品が満たさない特徴を満たすコンテンツに対して子空間内で重み付けをする。もうひとつは既知性で、既存品に共通する特徴を兼ね揃えていないコンテンツは受理せず子空間内において重み付けをしない。このように一見矛盾している二つのベクトルをバランス良く兼ね揃えた作品が消費ユーザーの一側面である市場に最も受け入れられる、と考える。
 このような消費ユーザーを想定しモデルに反映した結果、文化システムには二つのあり方が想定される。ひとつはシステム内に保存される技術ノウハウの集合が既知性を供給し、親空間からの写像が新規性を供給する。もしくはシステム内に保存される技術ノウハウの集合が新規性を供給し、親空間からの写像が既知性を供給する。しかしここで新規性が常に新たな供給を必要とするそれ自身の性質を考慮に入れるなら、前者のあり方は親空間の枯渇、後者のあり方は技術ノウハウの枯渇が、その文化の衰退の契機となることが指摘できる。
 正確にいえば、ここでの後者は文化ですらない文化以前の未成立文化と呼べる。いわゆる方法論の確立や技術ノウハウの定着を待つ段であり、この状態を経過して文化は発展途上文化へと移行する。ここで確たる親空間を定めないままであれば文化として成立しないまま一時的な流行として衰退する。逆に親空間を定めれば、親空間が新規性を供給する限り、子空間は発展途上文化として機能する。
 ここで消費ユーザー像を個別的な人間個人でなく、それらの間のコミュニケーションの総体としていることに注目していただきたい。生まれてから一度もロックを聞いたことがないがそれ以外のジャンルについては音楽的素養のある人間に、ビートルズのコピーバンドを聞かせれば当然ながら新規性と既知性を感じるだろう。あたかもビートルズ登場当時の人々のように。しかしここで扱う空間はあくまでコミュニケーションの総体であるため、ビートルズのコピーバンドはビートルズよりも売れないし、売れようとするなら新規性としてアレンジなどの付加価値を別に付ける必要がある。個々人はそうでなくとも空間はすでにビートルズを経験しているからだ。
 話を戻して、先進空間と発展途上空間の違いについての消費ユーザーを通した説明をする。消費ユーザーの検索能力は有限であり、空間内での言及による重み付けを介してしか作品を参照できない。空間の複雑度がいくらでも増加しうるのに対して、消費ユーザーの消費能力やクリエイターの供給能力には限界があり、市場の影響も受ける。言ってしまえば長期的な需要に対しての十分なアクセス経路を持つか否かが先進空間と発展途上空間の特徴上における差異である。
 この差異をもってして、発展途上空間においては自身を親空間とする必要がなく、先進空間においては自身を親空間とする必然性が発出する。システム内の技術ノウハウの保持と同様に空間内での古典作品の保持ということが必要になってくるのだ。何故なら発展途上空間における消費ユーザーの既知性を供給していたはずのシステム内の技術ノウハウの集合が、空間そのものの増大に伴って複雑化し既知性を保証できなくなるからだ。そのため消費ユーザーの欲望を通して空間は自空間を親空間とすることでその既知性を子空間内に確保する。これを先進空間とする。
 次にシステム内の技術ノウハウの保持、及びクリエイターの挙動について語る。そもそもここで扱っているクリエイターという概念はあくまでもクリエイター群内部のコミュニケーションの総体を指し示している。コミュニケーションはオートポイエーシス的システムの回帰的過程の中で継続的に次なるコミュニケーションを産み出し、そのような仕方でシステムは自分を統一体として自己産出し自己保存している。したがってコミュニケーションは次なるコミュニケーションを生み出すと同時に消失するため、情報の保持のためには次に産み出されるコミュニケーションにその情報を託すようなやり方でしか保存できない。例えば特定の情報媒体に記録する、あるいは個人が記憶するといった方法での情報そのものの保存は確かに可能であろう。しかしシステム内で再びコミュニケーション上において言及され、情報記録元が参照されるためには、ある種のインデックスとして機能するコミュニケーションがオートポイエーシス的に保持される必要がある。
 技術ノウハウの保存に関しても同じことが言えて、新たに取捨選択が繰り返される一定基準の知識量へのリンクをクリエイター間のコミュニケーションによって繰り返し言及することで保持が可能となる。同時に新たな蓄積、廃棄と言った側面に関しても繰り返される言及のうちに自然淘汰的に情報の有用性が保証される。
 また、システムと空間においてそのコミュニケーションを基礎単位としていることから、それらの間の人員の変遷は問題にしない。消費ユーザーがクリエイターとなることもその逆についても、コミュニケーションだけを取り上げた時、システムと空間の間の区別は可能である。即ち消費ユーザー的なコミュニケーションとクリエイター的なコミュニケーションは区別しうるということだ。

 


【六】本論

 

 さて、本論の目的を振り返ろう。初音ミクを殺すこと。即ちボーカロイドという文化の本質かつ唯一の価値と仮定した『複雑性の縮減』という機能を、初音ミクから剥奪するにはどうすれば良いのか。先述したモデルに沿ってボーカロイド文化を俯瞰してみる。
 ボーカロイド文化は当然ながら日本メジャー音楽を親空間としDTMを使用するクリエイターによって子空間を形成した。当初は未成立文化としての特徴を兼ね揃えており、オリジナル曲にしてもすでに良く普及していた作曲スタイルを踏襲して作られた楽曲群が氾濫し、更には既存曲のカバーやボーカロイドという商品設定そのものに言及する歌詞が多く見られた。
 続いて発展途上文化として移行すると同時に、ボーカロイドという文化空間においてしか見られないような珍しい曲構成が見られるようになる。これはボーカロイドに歌われることに意味があるような歌詞や音程のことではない。既存文化たる日本メジャー音楽においては供給と需要が上手く満たされなかった奇抜な(されどメジャー音楽の既知性も組み込まれた)作曲スタイルや音楽活動が、ボーカロイドという子空間においては言及を集めることに成功したということである。逆の側面から言えば、ボーカロイドシステムは親空間たる日本メジャー音楽やその他の文化のコンテンツを子空間において再配置したといえる。
 かようにして人々は複雑度の縮減された空間において需要を満たすことに成功する。ジャンル多様性といった次元ではメジャー音楽空間以上の複雑度を持った空間として成立している。この機能についてオタクという語の定義と現状の乖離を手がかりに言及する。
 文化は個人が単独で消費できるものなのか。消費ユーザーがその趣味を隠し通し、何らかの言及をネット上においてさえ自粛したとしても文化は成立しうるのだろうか。もちろんグッズの購入、文化の閲覧といったこともコミュニケーションのうちに入るが、恐らくそれだけでは文化は成立しないだろう。僕らは同好の士を見つけずとも、ネット上に感想を書き込みその文化への言及を他者に伝える。その過程を経て初めて文化は空間として成立する。
 ここで文化が複雑であるというのはコンテンツ自体の供給と需要のバランスのみでなく、コミュニケーションの供給と需要のバランスも上手く保てないということだ。例えばラウドロックという音楽ジャンルにおいて、その愛好者はこのジャンルについて語るためにどんなに少なくとも現在存続しているだけで三十以上のバンドを把握する必要がある。さらにラウドロックというジャンルの位置づけを知るために、似たような他ジャンルやその八十年代以前の楽曲についても精通しなければいけない。更にはバンドメンバーの変遷やその音楽性の融合などについても基礎知識として要求される。オタクと呼ばれる人種はこれをやってのけた上にコミュニケーションを築き上げるのである。ひとつのバンド、ひとつのジャンルに拘泥するばかりでは同ジャンル愛好者であってもコミュニケーションは難しくなるため、コミュニケーション上の必要から自然とその知識の幅は広がっていき複雑になっていく。
 この空間の複雑度に比例して要求されるジャンルの参入障壁が、空間内部でのアクセス不可能性につながり、例え個人的な需要や供給は自身の検索能力を以ってある程度まで満たせても、コミュニケーション欲求が満たされるまでに支払うべきコストは高まる。この問題点を解決する形で子空間が形成される。ボーカロイド空間の内部にもボカラウドと呼ばれる、ラウドロックジャンルがある。ここを参照したコミュニケーションを行う際には日本音楽上の煩雑な知識を要求されず、その広大なデータベースはあくまでバックグラウンドとして遠ざけて言及しないということが可能となる。ボーカロイドという比較的小さな空間を通すことでコミュニケーションの多様性は確保されたまま、ラウドロックについて語ることが可能となる。またその楽曲群は日本音楽上のラウドロック楽曲群以上に純化されたラウドロック音楽そのもののエッセンスを集約している。何故ならボカラウドというボーカロイド空間内部のジャンル(=タグ)を確立する時、親空間として定めたラウドロックの既存作品との差異化を測り新規性を確保する必要がなかったためである。つまりボカラウドはその成立時において未成立空間(=ボーカロイド空間の部分システム)として、ほとんど変化を加えずにラウドロックをボーカロイド空間内に写像したということだ。
 その結果、ラウドロックを好みながら当ジャンルへのアクセスにコストを払えない消費ユーザーはボーカロイドを通して間接的にそのジャンルに触れ、気に入った楽曲があればその楽曲をキーワードにバックグラウンドたるラウドロックの楽曲群にアクセスすることが出来るボーカロイド楽曲群が一種のインデックスとして機能する例だ。
 ちなみに現時点(2015/3)のGoogle検索でvocaloudが40,500件、ラウドロックが358,000件の検索候補をリストアップする。複雑度を測る上で適切な数字ではないだろうが、約1/9(実際には恐らくその累乗)に複雑度が縮減されたと言える。また楽曲制作者についてもメジャーアーティストと比較してその個人的な情報は遮断されていて、あたかもボーカロイドというキャラクターが作曲したかのような語りが可能となる。
 逆に日本音楽上においては十分に供給されなかった楽曲ジャンルがボーカロイドを通して隠れた需要を発掘することに成功した例もある。みんなのミクうた、ボーカロイド幻想狂気リンク、感性の氾濫β。これらは著作権上の障壁や、需要の少なさ、そもそも認知されていなかったなどの理由からメジャーな音楽市場に流通しなかった音楽ジャンルであり、ボーカロイドシステムを通して再配置されることによりその潜在的需要を刺激した。
 ここでオタクと呼ばれるカテゴリーに属する人間の定義について考えてみる。かつてのオタクといえば趣味とした特定の文化空間に対して徹底的なアクセスを行う人々を指し示していた。しかし現代ではネット上の記憶メディアを利用した肥大化により空間自体が人間の持ちうる検索能力を遥かに超え始めていることも手伝って、特定のジャンルでさえも徹底的に精通するということが難しくなりそのような過剰アクセスの仕方は例数自体が減少した。
 代わりにオタクという単語が指し示す対象は複雑過ぎる特定文化の子空間にして発展途上である文化に比較的浅くアクセスする人々へと移った。例えばアニメ、ラノベ、アニソン、ボカロ、声優。これらの文化はかつてのオタクのように広く深く触れられるよりも、狭く浅くアクセスされることを目的として成立している。言及対象を絞ることで空間内部での相互コミュニケーションを簡易化し、言及の際に把握しなければならない複雑度、情報量を縮減している。
 現在のオタクはかつてのオタクとまったく反対の特徴を持つ存在なのだ。
 初音ミクの衰退はこの新たなるオタク像を念頭においた上で、『初音ミク』という単語への言及を減らすことが鍵となる。すなわち初音ミクという子空間内部でのアクセス簡易性を阻害し、親空間にあたる音楽への参照を妨害するような言動を空間内部の要素たるコミュニケーションを通じて起こすということだ。しかし人が単独で行いうることは限られており、空間全体の傾向として特定の行為を個人個人が選択することを推奨する必要がある。


 では特定の行為とは何か。端的に言えば積極的な老害行為である。
 ここでは老害という言葉を本来とは違う意味で使っている。本来は高齢者たちが実権を握り、若年層が充分に活動できない状態を指し、またネット上で未熟さを指摘された者が相手の年齢とは関係なく発する罵倒語として使われている。しかしここでいう老害とはジャンル内での高齢者、即ち比較的古参のユーザーを指し示し、その行為による新参のユーザーへの参入阻害を示す。少子高齢化社会において顕著に見られるようになった単語であるが、円滑な世代の交代が行われず、組織の新陳代謝がはばまれる状態が問題であるという前提に依っている。そのため新規参入を必要としない、組織を構成員とする団体などではその領野の独占を問題視することはあっても老害といった問題意識は存在しないものと思われる。
 人がその構成要素となる以上、文化空間毎の人員の新陳代謝の必要性は前提として良いと考える。先述のモデルを元にこの行為を説明するなら、あくまで発展途上文化でしかない空間をあたかも先進文化であるかのように扱うことである。

1,空間内部に古典作品を定め、その視聴を新規参入の課題として強要する

 共通の話題を確保することでコミュニケーションを成立させるためと理由付けることもできるだろうが、それらが最初期の作品群であるメリットはない。何故ならそのような過去作はほとんどが未成立文化の時点での作品であり、新規性をシステムから供給していたため親空間内の作品との差異がまず認められない。古参の人間の感傷を除いて客観的に評価した時、その曲はありふれた特徴しか兼ね揃えていないのである。また発展途上文化として成立して以降の作品であっても、その作品を踏襲した上で尚且つクオリティの上回る作品がすでに空間内に存在する可能性が高い。
 結果として新参者への障壁、かつ新規の曲群へのアクセスを阻害することになりシステムそのものの価値を損なうことが出来る。

2,作品を通した親空間内への言及を糾弾する

 ボーカロイド文化の子空間としての価値を親空間内コンテンツの再配置と仮定したことから導かれる。ボーカロイド内部の楽曲群についての音楽ジャンルを議論することや特定の実在アーティストに言及することを糾弾することで、親空間へのアクセスを阻害する。特にこれは楽曲を楽曲そのものだけから評価するべきというニュークリティシズムの立場や、作者に失礼だという倫理的な方向性で議論が組み立て易い。ちなみにその善悪は未だ賛否両論な問題であろうがもちろんこの議論の範疇ではない。この議論においては何らかの楽曲に似ているという言及がオリジナリティの欠如を指摘するように聞こえるというなら、実際にオリジナリティに乏しいか否かという事実とは無関係にコミュニケーション上においてしか、その正否を問題にしないものとして扱うためだ。善悪も同様である。
 対する客観的事実として、ひとつの楽曲やボカロPからコミュニケーションを派生させて他ジャンルへと伸ばしていくことは、その空間内のアクセサビリティを向上することに貢献する。そして繰り返すことになるがそのアクセサビリティの延長上にある親空間への参照可能性こそを唯一の価値と仮定した。

3,親空間内部作品と似ている楽曲を糾弾する

 一見すると、2と矛盾しているように思えるが空間同士のつながりを断ち切るという意味では同じである。親空間内作品との類似はモデル構築段階で暗黙に前提としたが、事実として作品の制作において何らかの文脈を踏まえ、影響を受けることは無意識的にせよ避けられないことだと思われる。独自性の過剰な追求は子空間が発展途上文化であるままに先進文化として扱うことであり、親空間なくして空間独自の発展を求めるものである。これは十分なクリエイターの層の厚み、過去作品の厚みがあって初めて可能になることであり、消費ユーザーの成長さえも待たなければ、前衛的に過ぎた文化として需要の確保が上手くいかなくなると予想される。

4,ニッチ市場への需要を自意識と結びつける

 需要と供給さえ釣り合っていればその市場は成立する。しかし文化はそれでは成立しないと本論は主張する。文化は常に需要と供給の成長を求め、かつ市場の拡大も必須であると考えるからだ。ついては現状を維持する文化は必ず衰退する。特に文化がニッチであること自体を好む傾向が空間全体に定着すれば、発展途上文化は未成立文化まで退化することさえありうる。

5,二次創作(=子空間)の阻害

 どの規模、どの段階からが空間であるかという言明はあえて避けたが、厳密には一人の作家がひとつの作品を作り、それがコミュニケーション上で評価された時点からであると定義される。個性的な作風を持った同人作家の作品は例え二次創作であれ、親空間作品の変換可能性を持ち空間と定義することができる。しかしこれまでは少人数に支えられる空間を意図的に取り扱わなかった。人の寿命と文化の寿命に関連性を持たせないためである。
 子空間の生成は空間内部の複雑度を維持したままに空間を参照した際の複雑度を上げる。即ちコンテンツ自体の拡大と同様の効果を示す。これが空間内部の複雑度を維持したままであれるのは、空間内コミュニケーション上においてその空間の子空間への言及もその空間の親空間へのそれ同様、ある程度まで退けることが可能だからだ。このことから帰結的に子空間の巨大化と親空間の巨大化は必ずしも一致しないことが言える。ではどうして二次創作の阻害が空間の発展の阻害につながるか。二次創作側(=子空間)からの参照が失われるためである。

6,部分空間(=子空間)の阻害

 5と同様の理由から。ただしここでは空間内部に発生するジャンル分化を対象としている。作品群間にリンクを作るようなタグ付けひとつからでも部分空間の生成は可能だ。そのリンクや括りが煩雑だったり重複が大きすぎない限り、それらによって空間内のアクセサビリティは向上する。
 『カゲロウプロジェクト』というジャンルもこのカテゴリーに属する。それは自然の敵Pがニコニコ動画に公開した『人造エネミー』に端を発する、楽曲中で語られる物語を軸として数人のクリエイターによって展開されるマルチメディアプロジェクトである。ボカロ空間に内在しているように語られることが多いが、その変換可能性から子空間であるといえる。しかしその文化システムは自然の敵Pという人格を介しており、言ってしまえば彼の人格としての死とともに『カゲロウプロジェクト』という文化は終焉するだろう。個人の人格寿命と文化の寿命が結びつけられてしまうのは、文化という言葉にそぐわないように感じられるが、それでもそれは未成立文化として確かに成立している。
 親空間としてはロック、ラノベ、ノベルゲーム、そしてボカロなどが上手く混合されている。しかしながらカゲプロ空間においては親空間への言及をある程度まで退けることが可能となっており、また二次創作によって子空間を形成することも行われている。言及の複雑化の速度は黎明期のボカロ空間を想起させるほどであるが、空間そのものはあまり大きくない。拡大を続けているのはあくまでも二次創作の子空間である。
 この子空間が今後、具体的には親空間の衰退後。発展途上空間へと変わるかどうかは本論の観点からとても興味深いが、本論におけるモデルは未来予測のためのものでなく、現状観察のためのものであるので先を論ずることはあえて断念する。
 さて、目的に戻って『カゲロウプロジェクト』を捉えてみると、その空間をボカロ空間から疎外する。即ち言及を阻害することこそが必要であると言える。「カゲプロのパクリ」といったような発言に一々噛み付き、ボカロを介したカゲプロへの言及を糾弾する。特に初音ミクから切り離すようなコミュニケーションを意識することが肝要である。

7,空間そのものの挙動を記述する言説の固定化

 文化システムが変化し続けることを前提とすれば、空間全体がひとつの像に固定されることはない。しかし言説の側からの作用で消費ユーザーの意識を固定化し空間の挙動を規定することで、文化システムは衰退するものと考えられる。即ち、本論である。
 ここに『初音ミクを殺すには?』という後ろ向きの問いかけを、あえて選択した理由がある。
 空間を議論し尚且つその空間の存続を図るのであれば、その議論は直ちに解体されなければならない。議論自身こそ空間内部の要素であるため、その議論は他者の言及を介して空間の挙動を固定化してしまう。それを避けるために他者はその議論に力を与えてはいけないし、どこかで梯子を外さなくてはならない。
 しかし幸いにして、僕らの目的は空間の破壊だ。
 だから声を大にして言おう。この言論こそボカロ界の中心的な位置に収まるべきだと。その時、初音ミク死ぬだろうと。あまねく言及は鋭さを失い、システムの新陳代謝は上手くいかず至る箇所の歯車がきしみを上げ始める。古臭くなったイメージと遺跡のように積み上がった楽曲群はあたかも情報宇宙のダストのように名も知られずに朽ち果てるだろう。君らが本論への言及を繰り返し、内容を実践することで、僕らはひとつの文化を殺すのだ。
 誰かが祈りを込めて紡いだ歌詞も、愛にさえ代えられない作品を彼女の足元に差し出した幾千ものクリエイターの記録も、電子を伝う歌声にデイジー・ベルの響きを聞いて夢見た邂逅の未来も、すべてがここに途絶えてしまうのだ。
 それが僕らのやろうとしていることだ。

 


【七】結論

 

 果たしてボーカロイドオワコンなのだろうか。僕らは彼女たちの作り上げた創作空間が縮減し誰もが見向きをしないものへと堕する未来を、上手く思い描けるだろうか。例えば同じようにニコニコ動画を介して拡張した東方という文化システムと比較した場合はどうだろう。艦これは?ツイッターは?それらは本当に、いつか廃れる日が来るのだろうか。外的な圧力もなく代替品もなく。海辺の岩が波に洗われて少しずつ風化するように、いつかひっそりと消えてしまうのだろうか。
「さよなら……」
 文化同士を比較したところからはっきりとそれらの差異の輪郭を把握し、その差異が何を産み出しどのような影響を文化空間に与えるのか。まずはその視野を確保するところから始めて文化を殺すという方法論までたどり着いた。置いた仮定はたったひとつで、それは文化の機能的価値だ。ボーカロイドという存在を通して僕らが受け取っている価値とは何か。それがボーカロイドでなくてはならなかった、他の何者でもなく彼女らを通してしか得られなかったものは何かと突き詰めていくと、僕はあの仮定に辿り着く。
 もし仮に、ボーカロイドが顔を失ったならば。僕らは彼女を愛せるだろうか。彼女らが声を失った時、抱きしめることを躊躇わないと言えるだろうか。
「……嘘吐き」
 僕らは価値を問いただす時に来ている。正確には問われ続けている。多すぎるコンテンツに目移りしながら、埋もれる文化に黙祷を捧げる。新しいものが良いとは限らないけれど、変わらないものはすぐに忘れられてしまう。忘れられないためにはそれを愛する僕らが叫び続ける必要がある。
 価値を保証するのは僕らだ。
 僕らがボーカロイドを欲することをやめた時、それは失われるだろう。ならばその消失も隆盛も僕らの責任で、僕らのエゴで決められるはずだ。ボーカロイドオワコンだというのなら、それは間違いなく僕らのせいなのだ。変化を拒み続けて本当の価値を見誤った僕らのせいなのだ。
 だからボーカロイドを生き返らせるのも僕らの役目となる。
「ただいま」
 二度と間違えないように一歩一歩確かめながら、僕らは何処かへと歩き始めなければいけない。それは何処かに目的地があるような旅ではないし、歩くこと自体が理由となる散歩でもない。正しい方角に進まなければならないけれど、常にそれは変わり続ける。そんな進化の歩みだ。
 気休め程度のデータの羅列や信仰告白染みた賛美歌は聞き飽きたし、懐古趣味の思い出話なんて何の生産性があるのだろう。そんなことを考えながらこの文章を組み上げた。
 とは言え、地獄を指し示し続けるこのコンパスが何かを産み出せるのかと問われてもまた首を傾げるのだけど。
 だって歩き出すのも、針を叩き折るのも君らなのだから。

 

間接的に『補論』に続く

補論 - nemoexmachina’s diary

 

参考文献:ゲオルク・クニール,アルミン・ナセヒ(1995)『ルーマン 社会システム理論』新泉社.

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。

【超ボーマス】初音ミクを殺すための101の方法(前半)【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

【一】序文

 

 きっかけなんてなかった。
 人が人に恋をすることにきっかけは必要ないというのなら、たぶん人を憎むことにも大したきっかけなんて必要ないのだろう。最も、彼女が人であるのかという点には首を傾げざるを得ないのだけれども。その感情はある日ふと僕に自覚された。あまりに唐突に。あまりに脈絡なく。いつの間にか大きくなっていたその感情は、悲しいかな。恋ではなかったみたい。
 恋に落ちなかった僕に華々しい物語は用意されていないのだろう。代わりに用意された物語とも呼べない醜い事件のあらすじはきっとこうだ。憎しみを左手に。武器を右手に。僕は彼女の存在を拒絶するために今、立ち上がった。
 ただそれだけの話。
 初音ミクが憎い。
 何が積み重なったというのだろう。どうして僕だったのだろう。答えのない問いに苛まれ、眠れない夜をいくつも明かす段はとうに過ぎた。僕は数え飽きた最後の夜明けに、彼女を殺すことを決意した。
 長い年月をかけて収集を続けた結果、秘め続けた感情のように大切に飾られた彼女を模したグッズの数々は。何も残らぬ部屋の中央に積み上げてみれば、思っていたより小さなゴミ山だった。その頂上に彼女の本体とも呼べる、音声合成ソフト『初音ミク』のパッケージを置いた。
 これで消えるはずだと思っていた。僕の憎しみは終わりを迎えると。
 左手には憎しみ。右手には金属バット
 さて、と。
 僕は彼女を破壊した。
 叩き割られた数百枚を越えるディスクの粉が宙を舞い、フィギュアの破片がフローリングの床を転がり、ぬいぐるみの綿が雪のように汗ばんだ肩へ降り積もる。
 されど憎しみが、どうしても消えない。それは気付いてみてば当然過ぎて笑い出してしまったくらい、あんまりに当然のことだった。これで憎しみが消えるはずがない。だって彼女は死んでなどいないのだから。依然、世界の至る場所に彼女は生存している。
 どうやら武器を間違えたようだ。ならば僕はやり方を変えてしまわなくてはいけない。
 さて、と。
 くだらない茶番に付き合ってくれてありがとう。ここから続く本題も、もちろん茶番だけどね。
 ペンを手に取り僕は今、君らに向けて語り始める。
 初音ミクを殺す方法を考えよう。そもそも初音ミクとは誰なのか。どうすれば彼女を殺せるのか。
 僕は今、君らに向けて語りかける。
 ……。
 それはそれとしてその前に、僕は掃除機とゴミ袋を手に取った。部屋の掃除をしないと。

 


【二】仮定

 

 まずは定義せねばなるまい。
 初音ミク。この忌むべき存在を。固定して把握して観察するのだ。
 詳細なデータの羅列に意味を見出せない僕は、彼女の本質を自身の中に思い浮かべる。あるいは、そう。どうして僕は彼女をこんなにも憎んでしまったのか。そんなふうに問いかけるのはどうだろう。
 僕は最も華々しい彼女の記憶を思い浮かべた。それはレディー・ガガとの共演である。フランスにおけるオペラである。グーグルのCMである。
 しかし果たして、それは誰だったのだろう。それらの光景を思い返すだけで、僕は辱めを受けたような腹立たしいまでの居た堪れなさに苛まれる。君らに問い質してみたい。
 僕らの愛したボーカロイドとは『初音ミク』でしかないのか?
 僕らが夢中になったボーカロイドとはあの安易なキャラデザインなのか?
 僕らに舞い降りた天使(笑)とはそんな凡庸な薄っぺらいヒロインだったのか?
 もう一度ボーカロイドを問い直そう。
 恥を忍んで少しだけ糾弾させてもらえれば。


 上っ面の可愛さだけで十全にその魅力を語りきれるとのたまう恥知らずにして浅慮愚昧な『ニワカ』どもは黙っていろ。ただの音声合成ソフトとして嘲笑う無理解な世間一般の『良識』に中指を突き立てて、お前らの無恥厚顔な言動は一から十まで遍く間違っていると断言する。
 人類の技術の結晶はいつの時代も美しい。秒単位で前進を続ける科学の叡智は常に、より新しくより良いものを僕らの目の前のテーブルに置き去っていく。更新されない技術に価値はあるのだろうか?愛着と感傷にその出番をだらだらと引き伸ばされた古臭い技術に、土俵に上がる以前から叩き落とされ蹂躙される未来の技術を僕らは困ったような被害者面の笑みで見過ごすのか?

 

 糾弾おしまい。
 さて、と。
 ここにたったひとつの仮定を置く。
 先にも後にもただこれひとつしかない唯一無二の仮定とする。すなわちこの論において誤りがあるとすればこの一点に限り、この仮定が正しい範囲であるならこの論は必ず有効であるということだ。

 

仮定
ボーカロイドの本質は文化システムである』

 

 さて、ここからはこの仮定を一切疑わないことで論を組み立てていく。されど願わくば読者にはこの仮定を疑い続ける目を持って欲しい。この仮定の誤謬こそがこの論を瓦解せしめる鍵であるのだから。もしその亀裂を一度とも確信したのであれば、本論はその価値を一瞬にして失う。だから僕が手品よろしく論を組み立て奇術を弄する間、読者にはその監視を頼みたい。ご覧ください、種も仕掛けもございません。

 


【三】理論

 

 しかしそもそも、文化システムとはどのようなものであるのか。ここでの文化は社会や脳神経、蟻のコロニーなどと同等なシステムとして捉えられる。すなわち環境と区別された多数の相互に影響を及ぼしあう構成要素からなる、入力と出力を行っていくつかの状態数を変移する複雑なまとまりや仕組みの全体。本論はニクラス・ルーマンの社会システム理論を援用する。1984年にドイツの社会学ニクラス・ルーマンから提出された、社会を多次元的なシステムと捉える考え方だ。この理論の利点と欠点について乱暴な言い方をすれば、前者は社会の一切についてを全体社会の部分システムとして取り扱うことが可能である点。後者は『社会システム理論』という自身を含む社会学すらその理論の射程に収めるため、絶対的な批評性というものを放棄している点である。
 今述べた利点から、この理論は社会の部分システムとしての文化についても応用ができる。ここではそれを仮に文化システムと呼ぶ。


 以下では、この社会システム理論をボーカロイドという文化システムに写像していく。
 ルーマンの構想した社会システム理論は無機的だ。その最小構成要素に人を置かないからである。社会は何で構成されているのか?この問に対してルーマンはこう答える。社会システムの諸要素、つまりそれ以上には分解されえない究極的な統一体はコミュニケーションである。任意に行動を取り、意味付けを行う人間という存在を環境として扱うことでシステム理論の特権的位置から締め出すことによって、社会システムを機械的な存在として取り扱うことが容易になる。同様にボーカロイド文化システムにおいては最小構成単位は作品たる楽曲であるということができる。
 僕らはボーカロイド文化における作曲者を、その本体たる人間に焦点を合わせずそのPが発表した楽曲の総体として語る。あるいはツイッターにおける発言や個人情報までに言及が及んだとしても、そこにおいてPがどこの誰で何者であるかということはまったく問題にされない。極端なことをいえば作曲者が架空の人物であり、実は誰かにアップロードされる自動作曲ソフトの作品を評価していたとしても僕らの語りにはなんら影響を持たないのである。その事実が影響を持つのはコミュニケーションを通した僕らの語りへの直接的な情報投与においてである。すなわち「このPに実体はない」というコミュニケーションがツイッターなりニコニコニュースなりで流されることによって、僕らはそのボカロPへの言及の仕方を変える。そのボカロPの楽曲をソフトが産みだした機械的なものと考え、それに深読みをしたり、作曲する感性への言及をやめてしまう。その点においても変わるのはあくまで僕らの語り(=コミュニケーション)であり、僕ら自身の内心の変化は問題にならない。あくまでコミュニケーションを基礎におくからだ。僕ら(=視聴者)が全員bot(=人工無脳)であって、ツイッター上。なんならオフラインでも、人によく似たサイボーグの類であれ、僕ら自身がコミュニケーションを媒介するのに不都合なければ、僕らのコミュニケーションはシステムの要素として立派に機能しているということが言える。
 つまりボーカロイドの本質が文化システムであるということは、次のように言える。ボーカロイドとはボーカロイドという枠組みの中で発表されるその楽曲群であり、その楽曲群への言及であり、僕らのボーカロイドに関するコミュニケーションの統一体なのだ。そしてこれらのコミュニケーションは回帰的な過程のなかでみずからを制作することによって、自分自身を産出し保存する。
 さて、このように定めた上で本論の目的を見返してみよう。初音ミクを殺すこと。これはすなわち初音ミクという初期ボーカロイドたる存在への言及を矮小化し、次世代ボーカロイドへの言及を拡大化することだ。ボーカロイドの本質を持続させ、その表象でしかありえない『初音ミク』というキャラクターを過去の存在として『オワコン』化させることである。
 しかしこれだけでは、あくまでボーカロイドという事象を言及そのものまでに拡大したに過ぎず、仮定とは呼べない。仮定そのものの骨組みはもう少し後で明確に説明する。

 続けて、定義言及を文化システムの細部へと降ろしていく。
 コミュニケーションを基礎としてシステムを考えた時、僕らはボーカロイド文化についての総体を語ることが可能となる。
 コミュニケーションは情報、伝達、理解という三層の選択過程を互いに結合するものとして記述される。ここで気をつけなければならないのは、情報内容の選択も伝達の仕方の選択も理解の仕方の選択も、人の意識(=心的システム)の働きではなくコミュニケーションの構成部分であり、したがって社会システムによって構成されたものであるという点だ。コミュニケーションにとってどんなにコミュニケーションを重ねても二つの心的システムは不透明であり続ける。何が理解として達成されるかを確定するのはコミュニケーションそのものだ。
 ボカロPがどのような意図を以って作曲し発表したとしても、その楽曲は視聴者に受け入れられ理解される限りにおいて言及され、その理解自体も視聴者が発する次なるコミュニケーション上においてしか観測されない。コミュニケーションには当然、歯牙にもかけないといったような反応も含む。それはボカロP側から見ればマイリス登録数やコメントであり、そのコミュニケーションは次なる作曲(=コミュニケーション)へと影響する。
 具体的な仮想例で以上をなぞってみよう。
 『黒うさP』によって発表された『千本桜』というボカロ楽曲がある。仮にその歌詞について『黒うさP』は「明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩」を意図したとする。されどある視聴者(視聴者A)が歌詞について「耳触りのいい言葉の羅列」と理解し、ツイッター上において「千本桜の歌詞はさっぱり意味わからない」とツイートしたとする。楽曲というコミュニケーションがツイートというコミュニケーションを産みだしている。このツイートを見た『黒うさP』は次の楽曲ではもっと安直な歌詞にしようと考える。ツイートというコミュニケーションが次の楽曲というコミュニケーションを産みだしている。
 ここで別の視聴者(視聴者B)がこの歌詞を「明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩」だと考えたとする。そう思ったBさんはされど、Aさんの前述のツイートを見て、自身の読解をツイートすることを断念して「僕も歌詞の意味わからなかった」とツイートしたとする。するとBさんが理解したかどうかに関係なく、そのコミュニケーションのみを取り扱う範囲(=文化システム)において、BさんはAさん同様に『黒うさP』の楽曲を理解しなかったということになる。
 ここで更に『黒うさP』が意図した本来の意味を隠してツイッター上において「あの歌詞に深い意味はありません」とツイートすれば、AさんBさんともに『黒うさP』の楽曲の本当の意図(意味はない)を理解していたということになる。ツイートというコミュニケーションが理解を言明したツイートへの評価というコミュニケーションに影響するのだ。『黒うさP』やABがその内心において何を思ったかなどは関係なく、それがコミュニケーション上に現れる部分だけを論じるのである。このように人間を論から排除し、客観性を保てるコミュニケーションという単位を用いることで、社会システム理論は社会をシステムとして無機的に扱う。もちろんそれぞれの心的システムの存在は否定しない。だけどその挙動をブラックボックスとして扱い、問題にしないのだ。ここで人間と区別してコミュニケーションによって構成されたものを人格と呼ぶ。
 コミュニケーションは二人以上の人間(=心的システム)を必要とし、言葉以外にも表情、行動、データ、無視もコミュニケーションに含まれる。

 社会システム理論を拡張して、文化システムに共通する特徴を仮想例から確認する。
 楽曲はその視聴者のみならず別の作曲者のコミュニケーション(=作曲)へも影響を与える。
 『千本桜』を作曲するにあたり、『黒うさP』が演歌やロックを参考にしたと仮定する。あるいは歴史上の明治維新や西洋文化の流入を想定したと仮想する。その結果、『千本桜』には演歌っぽい雰囲気やロックっぽいメロディ。明治時代を想起させる歌詞が含まれることとなる。しかしこの『千本桜』を参考にして別のPが楽曲を構成した時、その楽曲は『千本桜』がその背景に敷いた演歌、ロック、明治といった要素についてある程度関与しないことが可能となる。
 小林幸子という歌手が『千本桜』の演歌アレンジを歌った時、明治っぽいPVやロックっぽさは排除されたアレンジとして歌われていた。またその演歌アレンジを視聴したボカロを知らない人々はそれがボカロ曲であることや、作曲者が『黒うさP』であることを知らなくともその楽曲への言及が可能になる。小林幸子という歌手を通して、その背景たる『千本桜』、また『千本桜』の背景たる明治維新は、ある程度まで遠ざけられるのである。
 ボカロを知らない人々は「年末に小林幸子が歌ってた演歌の歌詞の意味がわからない」というコミュニケーションを行うことが出来る。
 ここに文化システムの重大な特徴を見ることが出来る。それは「複雑性の縮減」という機能である。
 世界には人の理解の及ばない複雑過ぎる事象が多々ある。システムはそれらに対して「複雑性の縮減」を行うことで僕らの理解や行動の一助となる事ができる。これは例えば、社会という名のシステムの事例に置き換えて考えれば他者の群れである。社会なき群においては他者と出会い頭にそれが敵であるか味方であるかを選別し、自分より格が上か下かを自ら判断しなくてはならない。しかし社会があることによって、少なくとも国内の人間は自分への危害を制限されており、それぞれに身分が保証されている。さらに言えば床屋に行けば対価と引き換えに散髪をしてくれて、少なくとも床屋でケーキが出て来るようなことはないだろう。ここでシステムの重要な特徴のひとつを取り出す。すなわちより複雑な事象をその入力と出力を通して複雑度を縮減することで、そのシステムを利用する人々のユーザビリティを上げ、かつ全体として安定させることである。(ただしここでは社会システム理論の方向性からかなり外れた特徴の取り出し方をしていることを明記しておく。読者の理解を優先した結果であるが、本論の有効範囲では問題ないものと考える)
 ここでもう一度仮定を振り返る。ボーカロイドが文化システムであるとは、このことを指す。
 すなわちボーカロイドという文化の本質は「複雑性の縮減」であり、それのみが価値なのである。
 これが僕のたったひとつの仮定だ。
 キャラクターのビジュアルでも楽曲群でもコミュニティでもなく、ただシステムとしての機能のみをボーカロイドの本質的な価値であると、仮定する。
 初音ミクを殺す」とは、この本質的価値の軸を『初音ミク』というキャラクターからずらして『ボーカロイド』という事象に移すことである。

 


【四】モデル構築

 

 さて、仮定が定まったところで以上に説明した社会システム理論を背景に本論のビジュアルを簡易にしてモデル化する。いわば理論を加工して、文化システムに当てはめるのに適した形へと変容させる。とはいえあくまで理論の表層上の変容、つまり読者の理解の仕方や本論で扱う単語の定義の確認であり、理論そのものの正当性を損なうものではないことを確認しておく。また、ここでいう文化とは創作文化に限り歴史における文化とは別物である。
 創作物を介した文化は社会と違って、そのシステムは構成単位のコミュニケーションとして作品を介することが多い。そしてその生産と消費の形態は著しく独特である。そのため、コミュニケーションそのもの以上にシステムの構成要素たる人格群を中心に考えた方がわかりやすく、また消費者と生産者を別システムと考えるべきである。特定の方法で一義的に境界を設定できる作品群の集合をそれぞれ別システムたる『空間』と呼ぶことにして、ここで発信される作品への反応(インスピレーションも含む)は作品そのものに重み付けする。すなわち作品を通して受信人格(=消費ユーザー)群によるその作品への評価を参照することができると考える。これは個々の作品制作が必ずしも伝達や理解を求めずに発生するため、社会のそれと同等に考えるとクリエイターの自己満足まで考慮に含めてしまい煩雑になると考えるためである。重み付け(=参照可能性)により評価されなかった作品を存在の希薄なものとして扱う。
 ボーカロイドから離れてオタク系創作文化まで一般化した上で、ここで考案し、以降使用するモデルの大枠をなぞる。
 まずこの文化システムは親として巨大で複雑すぎる別の文化、あるいは現実の事象を要請する。これを親空間とする。
 親空間において、人々はその複雑さ故に自由に供給と需要を満たすことが出来ないことが想定される。ここでシステムの重要な特徴のひとつを再び取り上げる。すなわちより複雑な事象をその入力と出力を通して複雑度を縮減することで、そのシステムを利用する人々のユーザビリティを上げ、かつ全体として安定させることである。
 いわゆるオタク系創作文化の親空間としては音楽、映像文学、芸能などがある。
 次にシステム内部において多数の相互に影響を及ぼしあう構成要素としてクリエイターという人格を想定する。彼らは互いに影響を及ぼし合いながら、親空間としての文化空間や現実に(対して自己準拠的かつ閉鎖的に)接触しつつ作品を(自己準拠的かつ閉鎖的に)創りだすことで、その親空間を作品に写像する。その結果、ユーザーは親空間の複雑かつ長期的な変遷を考慮に含めないままオタク文化という括りで作品に触れることが可能となり、複雑度が減った広範な範囲の写像のみに言及することが可能となる。
 特にオタク系創作文化においては簡易化(=キャラクター化)の側面が強く見られる。表情に乏しく性的な肉体を持つ現実の女性を、大きな目と二頭身、わかりやすい表情アイコンに落とし込んだ萌えキャラはその代表例だろう。
 映画文学や純文学をアニメシナリオに落としこむ際にも、肉体的な重みや描写外の生活をことごとく簡易化することによって、精神同士の相互の蠢きや会話によって突き動かされる舞台設定の純化に成功している。
 ここで強調しておきたいのはオタク文化が決して親空間の劣化版(=下位互換)ではないということである。複雑に膨れ上がってしまう現実、あるいは現実に則した文化からその本質となる要素を必要十分に切り出し、ユーザーの前に並列に再配置することでアクセサビリティを著しく向上する。また純化された要素同士を手の届きやすい位置に収めることで新たな複合コンテンツを生成する下地となる。
 このような側面を特徴として、前述の親空間に対するオタク文化を子空間とする。
 更に言えばシステムを間に挟むこの親子関係は継承する。親には更に上に親があることもあり、子には孫にあたる文化が存在することも考えうる。
 それぞれの具体的な構成要素として、システムにあたるものはクリエイターおよびその技術の集合であり、空間にあたるものは作品およびその消費ユーザーの集合であるとする。繰り返すが、空間の定義に作品群のみではなくそれを受け入れるユーザーまでを含めたのは、文化としての最低限の強度を与えるためである。作品群のみであれば受け入れられない(=強度のない)クリエイターの自己満足までも重みのある空間として認めてしまう恐れがある。また他空間からの参照においては作品群が参照されると同時に、作品群を受け入れるユーザーまでもが参照されている。
 また親子という比喩に引かれないよう念を押させてもらえれば、ここでは長期的な時間の変遷を考慮に含めていない。つまり、親空間ができてその消失と同時に子空間が出来るということはなく、親空間と子空間は同じ時間、同じ場所に存在しコンテンツ的価値を交換し続けている。親が先に消失することもあれば子が先に消失することもあるが、それはあくまでシステム間の関係の変遷と考えるべきで、基本的には共存し相互に入力と出力を介して影響を与え合っていると考えるのが望ましい。

 このように文化モデルを考えた時、いくつか暗黙に前提とされたはずの諸条件が想定される。ではその諸条件とは何か。まずは二つ列挙してみよう。

1,クリエイターは新しい価値を生み出さない
2,従って、新しい作品とは親空間と子空間内の既存コンテンツの新たな組み合わせにすぎない

 これは少なからず現実を無視した本論において必要悪な誤りである。新しい作品が生まれないのであれば、文化はまったく進化しなかったと言える。つまり人類が使うパソコンは猿が蟻の巣を壊すために手にする木の棒の組み合わせから成っているというに等しい。されどいわゆるパラダイムシフトと呼ばれるような技術や文化の短期間での変化はめったに起こらず、親空間となりうるコンテンツを一から構築する才能は希少である。であるならば普遍的であることを目的とするモデルの構築においてはそのような例外を押し退ける方が得策といえる。
 また、これらを前提として次の条件が必要とされる。

3,ある程度大きな文化では過去の名作までのアクセスが十分整えられることにより、過去の自文化を親空間とすることが出来る
4,文化は以下のように二種類に分けられる。すなわち親空間を必要としない先進文化と、親空間を必要とする発展途上文化である
5,発展途上文化において、クリエイター群の仕事は親空間の読み替えおよび子空間への最適化である

 作品が完全なる既存物の組み合わせであるとすれば、その既存部品を作り上げたさらなるコンテンツ価値の源泉を辿る必要がある。その終点を現実とするのもひとつの解答だが、別の側面として価値の源泉となりうる文化(=先進文化)を用意する。もちろんすべての作品は多かれ少なかれ自文化内の先行作品を参考にする。ほぼ完全に自文化内部作品だけを参考に新たな作品を作り出せれば、それは自文化を親空間とできる文化であり、他文化を参考にしなければ新たな作品を作れないのならそれは他文化を親空間とする子空間である。
 これは逆に言えば過去の名作までのアクセスが十分に整えられなければ子空間でしかありえないということだ。

6,現実を親空間とする場合、その親子関係は技術的な影響も含める

 たとえばテクノという音楽ジャンルについて考えてみると、あの機械的な音楽が流行った理由としては技術的にそのような音を作ることが可能なシンセサイザーなどが発生したためだということも出来る。だが、別の側面から考えればそのような音楽を求めた人々の機械化される都市空間への漠然とした不安感とうまく結合したためだとも考えられる。そしてこれらの理由はどちらも同じ技術の進歩という現実の事態を出発点としている。であるからこの論においてはこれら二つの理由を厳密には区別しない。新たな技術があったから新たなジャンルが生成されたとしても、それを受け入れる下地が無ければ文化は発生しないからである。

7,親子間の包含関係は曖昧な語義によらず、その特徴から判断する
8,特徴とは独自の文脈であり制約である

 一般にラノベは小説の一ジャンルとされる。しかしここではそれを誤りと考え包含関係にないと考える。ラノベは小説を読み替えることのできる特徴を持つからである。特徴とはすなわち特定のレーベルからの出版、ヒロインの存在、挿絵、御都合主義を比較的容認する風潮、などである。これらの特徴を備えることで既存の小説(≠ラノベ)をラノベへと変換(=写像)することが出来る。この変換可能性を以って、ラノベ文化を子空間と判断する。逆に言えばこのような特徴、変換可能性(=一義的境界設定可能性)を持たなければ特定の空間の別空間でなくそれに包含される一過性の流行のようなもの(=未成立空間)と判断する。
 ここはあまり細かく定めると当モデルの普遍性を著しく失う恐れがあるため、あえて深く論じない。
 また詳しく述べなかったとはいえ、発展途上文化、先進文化という名前からも予測されるだろうが、これらは前者から後者へと変遷する。いかなる文化も発展途上文化を経ずに先進文化となることはなく、親空間を参照し模倣することで自文化空間を巨大化、カオス化させることが必要となる。その過程が飛ばされるなら、それは空間とならず一過性の流行でしかあれない。これも前述同様少なからず現実を無視した必要悪な誤りである。親空間となりうるコンテンツを一から構築する才能は極稀であるからだ。

 

後半へ続く

初音ミクを殺すための101の方法(後半) - nemoexmachina’s diary

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。