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TECHLOID出張所

東工大ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID宣伝用

【超ボーマス】初音ミクを殺すための101の方法(前半)【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

【一】序文

 

 きっかけなんてなかった。
 人が人に恋をすることにきっかけは必要ないというのなら、たぶん人を憎むことにも大したきっかけなんて必要ないのだろう。最も、彼女が人であるのかという点には首を傾げざるを得ないのだけれども。その感情はある日ふと僕に自覚された。あまりに唐突に。あまりに脈絡なく。いつの間にか大きくなっていたその感情は、悲しいかな。恋ではなかったみたい。
 恋に落ちなかった僕に華々しい物語は用意されていないのだろう。代わりに用意された物語とも呼べない醜い事件のあらすじはきっとこうだ。憎しみを左手に。武器を右手に。僕は彼女の存在を拒絶するために今、立ち上がった。
 ただそれだけの話。
 初音ミクが憎い。
 何が積み重なったというのだろう。どうして僕だったのだろう。答えのない問いに苛まれ、眠れない夜をいくつも明かす段はとうに過ぎた。僕は数え飽きた最後の夜明けに、彼女を殺すことを決意した。
 長い年月をかけて収集を続けた結果、秘め続けた感情のように大切に飾られた彼女を模したグッズの数々は。何も残らぬ部屋の中央に積み上げてみれば、思っていたより小さなゴミ山だった。その頂上に彼女の本体とも呼べる、音声合成ソフト『初音ミク』のパッケージを置いた。
 これで消えるはずだと思っていた。僕の憎しみは終わりを迎えると。
 左手には憎しみ。右手には金属バット
 さて、と。
 僕は彼女を破壊した。
 叩き割られた数百枚を越えるディスクの粉が宙を舞い、フィギュアの破片がフローリングの床を転がり、ぬいぐるみの綿が雪のように汗ばんだ肩へ降り積もる。
 されど憎しみが、どうしても消えない。それは気付いてみてば当然過ぎて笑い出してしまったくらい、あんまりに当然のことだった。これで憎しみが消えるはずがない。だって彼女は死んでなどいないのだから。依然、世界の至る場所に彼女は生存している。
 どうやら武器を間違えたようだ。ならば僕はやり方を変えてしまわなくてはいけない。
 さて、と。
 くだらない茶番に付き合ってくれてありがとう。ここから続く本題も、もちろん茶番だけどね。
 ペンを手に取り僕は今、君らに向けて語り始める。
 初音ミクを殺す方法を考えよう。そもそも初音ミクとは誰なのか。どうすれば彼女を殺せるのか。
 僕は今、君らに向けて語りかける。
 ……。
 それはそれとしてその前に、僕は掃除機とゴミ袋を手に取った。部屋の掃除をしないと。

 


【二】仮定

 

 まずは定義せねばなるまい。
 初音ミク。この忌むべき存在を。固定して把握して観察するのだ。
 詳細なデータの羅列に意味を見出せない僕は、彼女の本質を自身の中に思い浮かべる。あるいは、そう。どうして僕は彼女をこんなにも憎んでしまったのか。そんなふうに問いかけるのはどうだろう。
 僕は最も華々しい彼女の記憶を思い浮かべた。それはレディー・ガガとの共演である。フランスにおけるオペラである。グーグルのCMである。
 しかし果たして、それは誰だったのだろう。それらの光景を思い返すだけで、僕は辱めを受けたような腹立たしいまでの居た堪れなさに苛まれる。君らに問い質してみたい。
 僕らの愛したボーカロイドとは『初音ミク』でしかないのか?
 僕らが夢中になったボーカロイドとはあの安易なキャラデザインなのか?
 僕らに舞い降りた天使(笑)とはそんな凡庸な薄っぺらいヒロインだったのか?
 もう一度ボーカロイドを問い直そう。
 恥を忍んで少しだけ糾弾させてもらえれば。


 上っ面の可愛さだけで十全にその魅力を語りきれるとのたまう恥知らずにして浅慮愚昧な『ニワカ』どもは黙っていろ。ただの音声合成ソフトとして嘲笑う無理解な世間一般の『良識』に中指を突き立てて、お前らの無恥厚顔な言動は一から十まで遍く間違っていると断言する。
 人類の技術の結晶はいつの時代も美しい。秒単位で前進を続ける科学の叡智は常に、より新しくより良いものを僕らの目の前のテーブルに置き去っていく。更新されない技術に価値はあるのだろうか?愛着と感傷にその出番をだらだらと引き伸ばされた古臭い技術に、土俵に上がる以前から叩き落とされ蹂躙される未来の技術を僕らは困ったような被害者面の笑みで見過ごすのか?

 

 糾弾おしまい。
 さて、と。
 ここにたったひとつの仮定を置く。
 先にも後にもただこれひとつしかない唯一無二の仮定とする。すなわちこの論において誤りがあるとすればこの一点に限り、この仮定が正しい範囲であるならこの論は必ず有効であるということだ。

 

仮定
ボーカロイドの本質は文化システムである』

 

 さて、ここからはこの仮定を一切疑わないことで論を組み立てていく。されど願わくば読者にはこの仮定を疑い続ける目を持って欲しい。この仮定の誤謬こそがこの論を瓦解せしめる鍵であるのだから。もしその亀裂を一度とも確信したのであれば、本論はその価値を一瞬にして失う。だから僕が手品よろしく論を組み立て奇術を弄する間、読者にはその監視を頼みたい。ご覧ください、種も仕掛けもございません。

 


【三】理論

 

 しかしそもそも、文化システムとはどのようなものであるのか。ここでの文化は社会や脳神経、蟻のコロニーなどと同等なシステムとして捉えられる。すなわち環境と区別された多数の相互に影響を及ぼしあう構成要素からなる、入力と出力を行っていくつかの状態数を変移する複雑なまとまりや仕組みの全体。本論はニクラス・ルーマンの社会システム理論を援用する。1984年にドイツの社会学ニクラス・ルーマンから提出された、社会を多次元的なシステムと捉える考え方だ。この理論の利点と欠点について乱暴な言い方をすれば、前者は社会の一切についてを全体社会の部分システムとして取り扱うことが可能である点。後者は『社会システム理論』という自身を含む社会学すらその理論の射程に収めるため、絶対的な批評性というものを放棄している点である。
 今述べた利点から、この理論は社会の部分システムとしての文化についても応用ができる。ここではそれを仮に文化システムと呼ぶ。


 以下では、この社会システム理論をボーカロイドという文化システムに写像していく。
 ルーマンの構想した社会システム理論は無機的だ。その最小構成要素に人を置かないからである。社会は何で構成されているのか?この問に対してルーマンはこう答える。社会システムの諸要素、つまりそれ以上には分解されえない究極的な統一体はコミュニケーションである。任意に行動を取り、意味付けを行う人間という存在を環境として扱うことでシステム理論の特権的位置から締め出すことによって、社会システムを機械的な存在として取り扱うことが容易になる。同様にボーカロイド文化システムにおいては最小構成単位は作品たる楽曲であるということができる。
 僕らはボーカロイド文化における作曲者を、その本体たる人間に焦点を合わせずそのPが発表した楽曲の総体として語る。あるいはツイッターにおける発言や個人情報までに言及が及んだとしても、そこにおいてPがどこの誰で何者であるかということはまったく問題にされない。極端なことをいえば作曲者が架空の人物であり、実は誰かにアップロードされる自動作曲ソフトの作品を評価していたとしても僕らの語りにはなんら影響を持たないのである。その事実が影響を持つのはコミュニケーションを通した僕らの語りへの直接的な情報投与においてである。すなわち「このPに実体はない」というコミュニケーションがツイッターなりニコニコニュースなりで流されることによって、僕らはそのボカロPへの言及の仕方を変える。そのボカロPの楽曲をソフトが産みだした機械的なものと考え、それに深読みをしたり、作曲する感性への言及をやめてしまう。その点においても変わるのはあくまで僕らの語り(=コミュニケーション)であり、僕ら自身の内心の変化は問題にならない。あくまでコミュニケーションを基礎におくからだ。僕ら(=視聴者)が全員bot(=人工無脳)であって、ツイッター上。なんならオフラインでも、人によく似たサイボーグの類であれ、僕ら自身がコミュニケーションを媒介するのに不都合なければ、僕らのコミュニケーションはシステムの要素として立派に機能しているということが言える。
 つまりボーカロイドの本質が文化システムであるということは、次のように言える。ボーカロイドとはボーカロイドという枠組みの中で発表されるその楽曲群であり、その楽曲群への言及であり、僕らのボーカロイドに関するコミュニケーションの統一体なのだ。そしてこれらのコミュニケーションは回帰的な過程のなかでみずからを制作することによって、自分自身を産出し保存する。
 さて、このように定めた上で本論の目的を見返してみよう。初音ミクを殺すこと。これはすなわち初音ミクという初期ボーカロイドたる存在への言及を矮小化し、次世代ボーカロイドへの言及を拡大化することだ。ボーカロイドの本質を持続させ、その表象でしかありえない『初音ミク』というキャラクターを過去の存在として『オワコン』化させることである。
 しかしこれだけでは、あくまでボーカロイドという事象を言及そのものまでに拡大したに過ぎず、仮定とは呼べない。仮定そのものの骨組みはもう少し後で明確に説明する。

 続けて、定義言及を文化システムの細部へと降ろしていく。
 コミュニケーションを基礎としてシステムを考えた時、僕らはボーカロイド文化についての総体を語ることが可能となる。
 コミュニケーションは情報、伝達、理解という三層の選択過程を互いに結合するものとして記述される。ここで気をつけなければならないのは、情報内容の選択も伝達の仕方の選択も理解の仕方の選択も、人の意識(=心的システム)の働きではなくコミュニケーションの構成部分であり、したがって社会システムによって構成されたものであるという点だ。コミュニケーションにとってどんなにコミュニケーションを重ねても二つの心的システムは不透明であり続ける。何が理解として達成されるかを確定するのはコミュニケーションそのものだ。
 ボカロPがどのような意図を以って作曲し発表したとしても、その楽曲は視聴者に受け入れられ理解される限りにおいて言及され、その理解自体も視聴者が発する次なるコミュニケーション上においてしか観測されない。コミュニケーションには当然、歯牙にもかけないといったような反応も含む。それはボカロP側から見ればマイリス登録数やコメントであり、そのコミュニケーションは次なる作曲(=コミュニケーション)へと影響する。
 具体的な仮想例で以上をなぞってみよう。
 『黒うさP』によって発表された『千本桜』というボカロ楽曲がある。仮にその歌詞について『黒うさP』は「明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩」を意図したとする。されどある視聴者(視聴者A)が歌詞について「耳触りのいい言葉の羅列」と理解し、ツイッター上において「千本桜の歌詞はさっぱり意味わからない」とツイートしたとする。楽曲というコミュニケーションがツイートというコミュニケーションを産みだしている。このツイートを見た『黒うさP』は次の楽曲ではもっと安直な歌詞にしようと考える。ツイートというコミュニケーションが次の楽曲というコミュニケーションを産みだしている。
 ここで別の視聴者(視聴者B)がこの歌詞を「明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩」だと考えたとする。そう思ったBさんはされど、Aさんの前述のツイートを見て、自身の読解をツイートすることを断念して「僕も歌詞の意味わからなかった」とツイートしたとする。するとBさんが理解したかどうかに関係なく、そのコミュニケーションのみを取り扱う範囲(=文化システム)において、BさんはAさん同様に『黒うさP』の楽曲を理解しなかったということになる。
 ここで更に『黒うさP』が意図した本来の意味を隠してツイッター上において「あの歌詞に深い意味はありません」とツイートすれば、AさんBさんともに『黒うさP』の楽曲の本当の意図(意味はない)を理解していたということになる。ツイートというコミュニケーションが理解を言明したツイートへの評価というコミュニケーションに影響するのだ。『黒うさP』やABがその内心において何を思ったかなどは関係なく、それがコミュニケーション上に現れる部分だけを論じるのである。このように人間を論から排除し、客観性を保てるコミュニケーションという単位を用いることで、社会システム理論は社会をシステムとして無機的に扱う。もちろんそれぞれの心的システムの存在は否定しない。だけどその挙動をブラックボックスとして扱い、問題にしないのだ。ここで人間と区別してコミュニケーションによって構成されたものを人格と呼ぶ。
 コミュニケーションは二人以上の人間(=心的システム)を必要とし、言葉以外にも表情、行動、データ、無視もコミュニケーションに含まれる。

 社会システム理論を拡張して、文化システムに共通する特徴を仮想例から確認する。
 楽曲はその視聴者のみならず別の作曲者のコミュニケーション(=作曲)へも影響を与える。
 『千本桜』を作曲するにあたり、『黒うさP』が演歌やロックを参考にしたと仮定する。あるいは歴史上の明治維新や西洋文化の流入を想定したと仮想する。その結果、『千本桜』には演歌っぽい雰囲気やロックっぽいメロディ。明治時代を想起させる歌詞が含まれることとなる。しかしこの『千本桜』を参考にして別のPが楽曲を構成した時、その楽曲は『千本桜』がその背景に敷いた演歌、ロック、明治といった要素についてある程度関与しないことが可能となる。
 小林幸子という歌手が『千本桜』の演歌アレンジを歌った時、明治っぽいPVやロックっぽさは排除されたアレンジとして歌われていた。またその演歌アレンジを視聴したボカロを知らない人々はそれがボカロ曲であることや、作曲者が『黒うさP』であることを知らなくともその楽曲への言及が可能になる。小林幸子という歌手を通して、その背景たる『千本桜』、また『千本桜』の背景たる明治維新は、ある程度まで遠ざけられるのである。
 ボカロを知らない人々は「年末に小林幸子が歌ってた演歌の歌詞の意味がわからない」というコミュニケーションを行うことが出来る。
 ここに文化システムの重大な特徴を見ることが出来る。それは「複雑性の縮減」という機能である。
 世界には人の理解の及ばない複雑過ぎる事象が多々ある。システムはそれらに対して「複雑性の縮減」を行うことで僕らの理解や行動の一助となる事ができる。これは例えば、社会という名のシステムの事例に置き換えて考えれば他者の群れである。社会なき群においては他者と出会い頭にそれが敵であるか味方であるかを選別し、自分より格が上か下かを自ら判断しなくてはならない。しかし社会があることによって、少なくとも国内の人間は自分への危害を制限されており、それぞれに身分が保証されている。さらに言えば床屋に行けば対価と引き換えに散髪をしてくれて、少なくとも床屋でケーキが出て来るようなことはないだろう。ここでシステムの重要な特徴のひとつを取り出す。すなわちより複雑な事象をその入力と出力を通して複雑度を縮減することで、そのシステムを利用する人々のユーザビリティを上げ、かつ全体として安定させることである。(ただしここでは社会システム理論の方向性からかなり外れた特徴の取り出し方をしていることを明記しておく。読者の理解を優先した結果であるが、本論の有効範囲では問題ないものと考える)
 ここでもう一度仮定を振り返る。ボーカロイドが文化システムであるとは、このことを指す。
 すなわちボーカロイドという文化の本質は「複雑性の縮減」であり、それのみが価値なのである。
 これが僕のたったひとつの仮定だ。
 キャラクターのビジュアルでも楽曲群でもコミュニティでもなく、ただシステムとしての機能のみをボーカロイドの本質的な価値であると、仮定する。
 初音ミクを殺す」とは、この本質的価値の軸を『初音ミク』というキャラクターからずらして『ボーカロイド』という事象に移すことである。

 


【四】モデル構築

 

 さて、仮定が定まったところで以上に説明した社会システム理論を背景に本論のビジュアルを簡易にしてモデル化する。いわば理論を加工して、文化システムに当てはめるのに適した形へと変容させる。とはいえあくまで理論の表層上の変容、つまり読者の理解の仕方や本論で扱う単語の定義の確認であり、理論そのものの正当性を損なうものではないことを確認しておく。また、ここでいう文化とは創作文化に限り歴史における文化とは別物である。
 創作物を介した文化は社会と違って、そのシステムは構成単位のコミュニケーションとして作品を介することが多い。そしてその生産と消費の形態は著しく独特である。そのため、コミュニケーションそのもの以上にシステムの構成要素たる人格群を中心に考えた方がわかりやすく、また消費者と生産者を別システムと考えるべきである。特定の方法で一義的に境界を設定できる作品群の集合をそれぞれ別システムたる『空間』と呼ぶことにして、ここで発信される作品への反応(インスピレーションも含む)は作品そのものに重み付けする。すなわち作品を通して受信人格(=消費ユーザー)群によるその作品への評価を参照することができると考える。これは個々の作品制作が必ずしも伝達や理解を求めずに発生するため、社会のそれと同等に考えるとクリエイターの自己満足まで考慮に含めてしまい煩雑になると考えるためである。重み付け(=参照可能性)により評価されなかった作品を存在の希薄なものとして扱う。
 ボーカロイドから離れてオタク系創作文化まで一般化した上で、ここで考案し、以降使用するモデルの大枠をなぞる。
 まずこの文化システムは親として巨大で複雑すぎる別の文化、あるいは現実の事象を要請する。これを親空間とする。
 親空間において、人々はその複雑さ故に自由に供給と需要を満たすことが出来ないことが想定される。ここでシステムの重要な特徴のひとつを再び取り上げる。すなわちより複雑な事象をその入力と出力を通して複雑度を縮減することで、そのシステムを利用する人々のユーザビリティを上げ、かつ全体として安定させることである。
 いわゆるオタク系創作文化の親空間としては音楽、映像文学、芸能などがある。
 次にシステム内部において多数の相互に影響を及ぼしあう構成要素としてクリエイターという人格を想定する。彼らは互いに影響を及ぼし合いながら、親空間としての文化空間や現実に(対して自己準拠的かつ閉鎖的に)接触しつつ作品を(自己準拠的かつ閉鎖的に)創りだすことで、その親空間を作品に写像する。その結果、ユーザーは親空間の複雑かつ長期的な変遷を考慮に含めないままオタク文化という括りで作品に触れることが可能となり、複雑度が減った広範な範囲の写像のみに言及することが可能となる。
 特にオタク系創作文化においては簡易化(=キャラクター化)の側面が強く見られる。表情に乏しく性的な肉体を持つ現実の女性を、大きな目と二頭身、わかりやすい表情アイコンに落とし込んだ萌えキャラはその代表例だろう。
 映画文学や純文学をアニメシナリオに落としこむ際にも、肉体的な重みや描写外の生活をことごとく簡易化することによって、精神同士の相互の蠢きや会話によって突き動かされる舞台設定の純化に成功している。
 ここで強調しておきたいのはオタク文化が決して親空間の劣化版(=下位互換)ではないということである。複雑に膨れ上がってしまう現実、あるいは現実に則した文化からその本質となる要素を必要十分に切り出し、ユーザーの前に並列に再配置することでアクセサビリティを著しく向上する。また純化された要素同士を手の届きやすい位置に収めることで新たな複合コンテンツを生成する下地となる。
 このような側面を特徴として、前述の親空間に対するオタク文化を子空間とする。
 更に言えばシステムを間に挟むこの親子関係は継承する。親には更に上に親があることもあり、子には孫にあたる文化が存在することも考えうる。
 それぞれの具体的な構成要素として、システムにあたるものはクリエイターおよびその技術の集合であり、空間にあたるものは作品およびその消費ユーザーの集合であるとする。繰り返すが、空間の定義に作品群のみではなくそれを受け入れるユーザーまでを含めたのは、文化としての最低限の強度を与えるためである。作品群のみであれば受け入れられない(=強度のない)クリエイターの自己満足までも重みのある空間として認めてしまう恐れがある。また他空間からの参照においては作品群が参照されると同時に、作品群を受け入れるユーザーまでもが参照されている。
 また親子という比喩に引かれないよう念を押させてもらえれば、ここでは長期的な時間の変遷を考慮に含めていない。つまり、親空間ができてその消失と同時に子空間が出来るということはなく、親空間と子空間は同じ時間、同じ場所に存在しコンテンツ的価値を交換し続けている。親が先に消失することもあれば子が先に消失することもあるが、それはあくまでシステム間の関係の変遷と考えるべきで、基本的には共存し相互に入力と出力を介して影響を与え合っていると考えるのが望ましい。

 このように文化モデルを考えた時、いくつか暗黙に前提とされたはずの諸条件が想定される。ではその諸条件とは何か。まずは二つ列挙してみよう。

1,クリエイターは新しい価値を生み出さない
2,従って、新しい作品とは親空間と子空間内の既存コンテンツの新たな組み合わせにすぎない

 これは少なからず現実を無視した本論において必要悪な誤りである。新しい作品が生まれないのであれば、文化はまったく進化しなかったと言える。つまり人類が使うパソコンは猿が蟻の巣を壊すために手にする木の棒の組み合わせから成っているというに等しい。されどいわゆるパラダイムシフトと呼ばれるような技術や文化の短期間での変化はめったに起こらず、親空間となりうるコンテンツを一から構築する才能は希少である。であるならば普遍的であることを目的とするモデルの構築においてはそのような例外を押し退ける方が得策といえる。
 また、これらを前提として次の条件が必要とされる。

3,ある程度大きな文化では過去の名作までのアクセスが十分整えられることにより、過去の自文化を親空間とすることが出来る
4,文化は以下のように二種類に分けられる。すなわち親空間を必要としない先進文化と、親空間を必要とする発展途上文化である
5,発展途上文化において、クリエイター群の仕事は親空間の読み替えおよび子空間への最適化である

 作品が完全なる既存物の組み合わせであるとすれば、その既存部品を作り上げたさらなるコンテンツ価値の源泉を辿る必要がある。その終点を現実とするのもひとつの解答だが、別の側面として価値の源泉となりうる文化(=先進文化)を用意する。もちろんすべての作品は多かれ少なかれ自文化内の先行作品を参考にする。ほぼ完全に自文化内部作品だけを参考に新たな作品を作り出せれば、それは自文化を親空間とできる文化であり、他文化を参考にしなければ新たな作品を作れないのならそれは他文化を親空間とする子空間である。
 これは逆に言えば過去の名作までのアクセスが十分に整えられなければ子空間でしかありえないということだ。

6,現実を親空間とする場合、その親子関係は技術的な影響も含める

 たとえばテクノという音楽ジャンルについて考えてみると、あの機械的な音楽が流行った理由としては技術的にそのような音を作ることが可能なシンセサイザーなどが発生したためだということも出来る。だが、別の側面から考えればそのような音楽を求めた人々の機械化される都市空間への漠然とした不安感とうまく結合したためだとも考えられる。そしてこれらの理由はどちらも同じ技術の進歩という現実の事態を出発点としている。であるからこの論においてはこれら二つの理由を厳密には区別しない。新たな技術があったから新たなジャンルが生成されたとしても、それを受け入れる下地が無ければ文化は発生しないからである。

7,親子間の包含関係は曖昧な語義によらず、その特徴から判断する
8,特徴とは独自の文脈であり制約である

 一般にラノベは小説の一ジャンルとされる。しかしここではそれを誤りと考え包含関係にないと考える。ラノベは小説を読み替えることのできる特徴を持つからである。特徴とはすなわち特定のレーベルからの出版、ヒロインの存在、挿絵、御都合主義を比較的容認する風潮、などである。これらの特徴を備えることで既存の小説(≠ラノベ)をラノベへと変換(=写像)することが出来る。この変換可能性を以って、ラノベ文化を子空間と判断する。逆に言えばこのような特徴、変換可能性(=一義的境界設定可能性)を持たなければ特定の空間の別空間でなくそれに包含される一過性の流行のようなもの(=未成立空間)と判断する。
 ここはあまり細かく定めると当モデルの普遍性を著しく失う恐れがあるため、あえて深く論じない。
 また詳しく述べなかったとはいえ、発展途上文化、先進文化という名前からも予測されるだろうが、これらは前者から後者へと変遷する。いかなる文化も発展途上文化を経ずに先進文化となることはなく、親空間を参照し模倣することで自文化空間を巨大化、カオス化させることが必要となる。その過程が飛ばされるなら、それは空間とならず一過性の流行でしかあれない。これも前述同様少なからず現実を無視した必要悪な誤りである。親空間となりうるコンテンツを一から構築する才能は極稀であるからだ。

 

後半へ続く

初音ミクを殺すための101の方法(後半) - nemoexmachina’s diary

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。