TECHLOID出張所

東工大ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID宣伝用

【超ボーマス】初音ミクを殺すための101の方法(後半)【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

(前半からの続きです。先に前半をお読みください)

初音ミクを殺すための101の方法(前半) - nemoexmachina’s diary


【五】モデル検証

 

 次にこの極めて簡易なモデルが如何に現実の文化を説明できるかという部分に焦点を当てて、その内部構造に言及する。

 例えば日本文学という文化がある。これは広範な範囲を持つ単語であるが、ここではある程度の正確さを期待して、坪内逍遥の『小説神髄』以降に成立した近代日本文学を指すこととする。即ち西洋文学を親空間とする当時の知識人らをシステムとした、小空間である。ここで強調したいのは、近代日本文学がいわゆる翻訳ではなく日本独自の小説技法と日本語で書かれたオリジナルのストーリーであったことだ。つまり親空間の作品に対して変換作業が行われており、なおかつその変換作業過程においてオリジナルな創作(=親空間内の諸要素の配合)が付与されているという点で単なる翻訳に留まらない。
 このことを強調しておかなければ、大きな誤解を産むと思われる。即ちここでいう写像とは単なる技術的な変換であり、メディアミクスでいえば映画シナリオに一切手を加えない書籍化を指しているという誤解だ。そうではなく具体例をあげるなら二葉亭四迷の小説『浮雲』において親空間として招聘されているのはロシア文学のみではない。現実の明治日本をも親空間として小説内にその文化を写像しており、そのオリジナルな創作(=親空間内の諸要素の配合)が付与されている。
 これらのことに注意を傾ける必要があるのは何故か。それは創作は模倣に始まるものであるが、単なる模倣では評価は得られず、かつ新規性が与えられなければ消費ユーザーは量産コンテンツに飽きを感じ、その文化は枯渇してしまうからだ。当モデルはこの創作の根元部分を反映した構造となっている。
 例えば一人の人間がライトノベルを書こうとした時、ラノベの方法論にあたるものを盲目的に探り当てることはまず不可能で、他のライトノベル、あるいは指南書の類に学ぶだろう。これはシステム内に保存されている技術のノウハウ、写像変換の方法を学んでいるという段にあたる。その過程を通じてシステム内に組み込まれたその人は、果たしてラノベを書くことができようか。不可能である。
 ここで彼が学んだのはあくまで箇条書き的な方法論であることに注意されたい。起承転結をくっきり分ける。ヒロインは魅力的に、主人公は自己投影しやすく。このようなノウハウである。このモデルが創作において制約を課すのは、これとは別に親空間としての別空間、あるいは自空間を要請するという事実を反映した点だ。単純な技術の結晶であれば創作文化はすぐに枯渇する。奇抜な精神論的作品の数々が短期間のブームになったところで、新規性が薄れれば消費ユーザーは飽き、クリエイター側も既存作品の模倣ではない作品の生成に頭を悩ませる。古典作品の完全模倣をくり返すばかりであっても実用性という別のベクトルの価値を得られなかった文化はブランドとしての機能、あるいは国からの保護をもってして細々と続くのが精々であろう。そしてそのような文化はこのいわゆる情報化社会においての言及を集めず、空間自体が希薄になりやがては消失に至る。
 話を例に戻して、先進空間と発展途上空間の違いについて述べる。ラノベの方法論を学んだ彼がさて、親空間としていくつかの空間を定めようとする。例えばそれは現実であり、彼自身の経験や人伝に聞いた他人の経験、ニュース。あるいは日本文学であり漫画文学であるかもしれない。
 先進空間と発展途上空間の違いについて自文化を親空間と定めることが出来るか否かであると先述した。
 例に即して言えば、ラノベしか読んだことのない人間がラノベを書けるかということになる。そしてラノベクリエイターのうちの大多数がラノベ以外の文化に学ばずにそのラノベ文化を維持できるかということになる。ここで当モデルにおいて指摘されるべきなのは、システムに保存される技術的なノウハウと親空間から写像元として参照する文化は別ものとして扱っていることであり、しかし厳密にそれらは区別されるものではないということである。当モデルにおいては個別的な例外にまで対応しうる厳密さは期待されておらず、あくまで全体としての文化を捉えるための視野を確保するものである。そのため多くの事象はファジィに把握されており、定義そのものも確たる線引を用いない。
 同様にして、先進空間と発展途上空間の間にもはっきりとした区別はなく移行過程もあるし、現実に存在する文化のほとんどがそれだと言うこともできる。しかしいくらファジィな定義とはいえ、ラノベ空間はラノベシステムにおいて極稀にラノベにしか学ばないラノベクリエイターがいることは許容できても、ラノベクリエイターの大多数がラノベにしか学ばないことは許容できない。これは文化自体の強度(=過去の蓄積の浅さ)が消費ユーザー側が新規性を求め、かつ既知性を欲望するという事実を通して許容しないのだ。
 ここで一度、このモデルが想定している消費ユーザー(=子空間内のコミュニケーションの総体)像について言及する。この消費ユーザーは大きく分けて二つの欲望ベクトルを持っておりそれらは独立している。ひとつは新規性で、既存品が満たさない特徴を満たすコンテンツに対して子空間内で重み付けをする。もうひとつは既知性で、既存品に共通する特徴を兼ね揃えていないコンテンツは受理せず子空間内において重み付けをしない。このように一見矛盾している二つのベクトルをバランス良く兼ね揃えた作品が消費ユーザーの一側面である市場に最も受け入れられる、と考える。
 このような消費ユーザーを想定しモデルに反映した結果、文化システムには二つのあり方が想定される。ひとつはシステム内に保存される技術ノウハウの集合が既知性を供給し、親空間からの写像が新規性を供給する。もしくはシステム内に保存される技術ノウハウの集合が新規性を供給し、親空間からの写像が既知性を供給する。しかしここで新規性が常に新たな供給を必要とするそれ自身の性質を考慮に入れるなら、前者のあり方は親空間の枯渇、後者のあり方は技術ノウハウの枯渇が、その文化の衰退の契機となることが指摘できる。
 正確にいえば、ここでの後者は文化ですらない文化以前の未成立文化と呼べる。いわゆる方法論の確立や技術ノウハウの定着を待つ段であり、この状態を経過して文化は発展途上文化へと移行する。ここで確たる親空間を定めないままであれば文化として成立しないまま一時的な流行として衰退する。逆に親空間を定めれば、親空間が新規性を供給する限り、子空間は発展途上文化として機能する。
 ここで消費ユーザー像を個別的な人間個人でなく、それらの間のコミュニケーションの総体としていることに注目していただきたい。生まれてから一度もロックを聞いたことがないがそれ以外のジャンルについては音楽的素養のある人間に、ビートルズのコピーバンドを聞かせれば当然ながら新規性と既知性を感じるだろう。あたかもビートルズ登場当時の人々のように。しかしここで扱う空間はあくまでコミュニケーションの総体であるため、ビートルズのコピーバンドはビートルズよりも売れないし、売れようとするなら新規性としてアレンジなどの付加価値を別に付ける必要がある。個々人はそうでなくとも空間はすでにビートルズを経験しているからだ。
 話を戻して、先進空間と発展途上空間の違いについての消費ユーザーを通した説明をする。消費ユーザーの検索能力は有限であり、空間内での言及による重み付けを介してしか作品を参照できない。空間の複雑度がいくらでも増加しうるのに対して、消費ユーザーの消費能力やクリエイターの供給能力には限界があり、市場の影響も受ける。言ってしまえば長期的な需要に対しての十分なアクセス経路を持つか否かが先進空間と発展途上空間の特徴上における差異である。
 この差異をもってして、発展途上空間においては自身を親空間とする必要がなく、先進空間においては自身を親空間とする必然性が発出する。システム内の技術ノウハウの保持と同様に空間内での古典作品の保持ということが必要になってくるのだ。何故なら発展途上空間における消費ユーザーの既知性を供給していたはずのシステム内の技術ノウハウの集合が、空間そのものの増大に伴って複雑化し既知性を保証できなくなるからだ。そのため消費ユーザーの欲望を通して空間は自空間を親空間とすることでその既知性を子空間内に確保する。これを先進空間とする。
 次にシステム内の技術ノウハウの保持、及びクリエイターの挙動について語る。そもそもここで扱っているクリエイターという概念はあくまでもクリエイター群内部のコミュニケーションの総体を指し示している。コミュニケーションはオートポイエーシス的システムの回帰的過程の中で継続的に次なるコミュニケーションを産み出し、そのような仕方でシステムは自分を統一体として自己産出し自己保存している。したがってコミュニケーションは次なるコミュニケーションを生み出すと同時に消失するため、情報の保持のためには次に産み出されるコミュニケーションにその情報を託すようなやり方でしか保存できない。例えば特定の情報媒体に記録する、あるいは個人が記憶するといった方法での情報そのものの保存は確かに可能であろう。しかしシステム内で再びコミュニケーション上において言及され、情報記録元が参照されるためには、ある種のインデックスとして機能するコミュニケーションがオートポイエーシス的に保持される必要がある。
 技術ノウハウの保存に関しても同じことが言えて、新たに取捨選択が繰り返される一定基準の知識量へのリンクをクリエイター間のコミュニケーションによって繰り返し言及することで保持が可能となる。同時に新たな蓄積、廃棄と言った側面に関しても繰り返される言及のうちに自然淘汰的に情報の有用性が保証される。
 また、システムと空間においてそのコミュニケーションを基礎単位としていることから、それらの間の人員の変遷は問題にしない。消費ユーザーがクリエイターとなることもその逆についても、コミュニケーションだけを取り上げた時、システムと空間の間の区別は可能である。即ち消費ユーザー的なコミュニケーションとクリエイター的なコミュニケーションは区別しうるということだ。

 


【六】本論

 

 さて、本論の目的を振り返ろう。初音ミクを殺すこと。即ちボーカロイドという文化の本質かつ唯一の価値と仮定した『複雑性の縮減』という機能を、初音ミクから剥奪するにはどうすれば良いのか。先述したモデルに沿ってボーカロイド文化を俯瞰してみる。
 ボーカロイド文化は当然ながら日本メジャー音楽を親空間としDTMを使用するクリエイターによって子空間を形成した。当初は未成立文化としての特徴を兼ね揃えており、オリジナル曲にしてもすでに良く普及していた作曲スタイルを踏襲して作られた楽曲群が氾濫し、更には既存曲のカバーやボーカロイドという商品設定そのものに言及する歌詞が多く見られた。
 続いて発展途上文化として移行すると同時に、ボーカロイドという文化空間においてしか見られないような珍しい曲構成が見られるようになる。これはボーカロイドに歌われることに意味があるような歌詞や音程のことではない。既存文化たる日本メジャー音楽においては供給と需要が上手く満たされなかった奇抜な(されどメジャー音楽の既知性も組み込まれた)作曲スタイルや音楽活動が、ボーカロイドという子空間においては言及を集めることに成功したということである。逆の側面から言えば、ボーカロイドシステムは親空間たる日本メジャー音楽やその他の文化のコンテンツを子空間において再配置したといえる。
 かようにして人々は複雑度の縮減された空間において需要を満たすことに成功する。ジャンル多様性といった次元ではメジャー音楽空間以上の複雑度を持った空間として成立している。この機能についてオタクという語の定義と現状の乖離を手がかりに言及する。
 文化は個人が単独で消費できるものなのか。消費ユーザーがその趣味を隠し通し、何らかの言及をネット上においてさえ自粛したとしても文化は成立しうるのだろうか。もちろんグッズの購入、文化の閲覧といったこともコミュニケーションのうちに入るが、恐らくそれだけでは文化は成立しないだろう。僕らは同好の士を見つけずとも、ネット上に感想を書き込みその文化への言及を他者に伝える。その過程を経て初めて文化は空間として成立する。
 ここで文化が複雑であるというのはコンテンツ自体の供給と需要のバランスのみでなく、コミュニケーションの供給と需要のバランスも上手く保てないということだ。例えばラウドロックという音楽ジャンルにおいて、その愛好者はこのジャンルについて語るためにどんなに少なくとも現在存続しているだけで三十以上のバンドを把握する必要がある。さらにラウドロックというジャンルの位置づけを知るために、似たような他ジャンルやその八十年代以前の楽曲についても精通しなければいけない。更にはバンドメンバーの変遷やその音楽性の融合などについても基礎知識として要求される。オタクと呼ばれる人種はこれをやってのけた上にコミュニケーションを築き上げるのである。ひとつのバンド、ひとつのジャンルに拘泥するばかりでは同ジャンル愛好者であってもコミュニケーションは難しくなるため、コミュニケーション上の必要から自然とその知識の幅は広がっていき複雑になっていく。
 この空間の複雑度に比例して要求されるジャンルの参入障壁が、空間内部でのアクセス不可能性につながり、例え個人的な需要や供給は自身の検索能力を以ってある程度まで満たせても、コミュニケーション欲求が満たされるまでに支払うべきコストは高まる。この問題点を解決する形で子空間が形成される。ボーカロイド空間の内部にもボカラウドと呼ばれる、ラウドロックジャンルがある。ここを参照したコミュニケーションを行う際には日本音楽上の煩雑な知識を要求されず、その広大なデータベースはあくまでバックグラウンドとして遠ざけて言及しないということが可能となる。ボーカロイドという比較的小さな空間を通すことでコミュニケーションの多様性は確保されたまま、ラウドロックについて語ることが可能となる。またその楽曲群は日本音楽上のラウドロック楽曲群以上に純化されたラウドロック音楽そのもののエッセンスを集約している。何故ならボカラウドというボーカロイド空間内部のジャンル(=タグ)を確立する時、親空間として定めたラウドロックの既存作品との差異化を測り新規性を確保する必要がなかったためである。つまりボカラウドはその成立時において未成立空間(=ボーカロイド空間の部分システム)として、ほとんど変化を加えずにラウドロックをボーカロイド空間内に写像したということだ。
 その結果、ラウドロックを好みながら当ジャンルへのアクセスにコストを払えない消費ユーザーはボーカロイドを通して間接的にそのジャンルに触れ、気に入った楽曲があればその楽曲をキーワードにバックグラウンドたるラウドロックの楽曲群にアクセスすることが出来るボーカロイド楽曲群が一種のインデックスとして機能する例だ。
 ちなみに現時点(2015/3)のGoogle検索でvocaloudが40,500件、ラウドロックが358,000件の検索候補をリストアップする。複雑度を測る上で適切な数字ではないだろうが、約1/9(実際には恐らくその累乗)に複雑度が縮減されたと言える。また楽曲制作者についてもメジャーアーティストと比較してその個人的な情報は遮断されていて、あたかもボーカロイドというキャラクターが作曲したかのような語りが可能となる。
 逆に日本音楽上においては十分に供給されなかった楽曲ジャンルがボーカロイドを通して隠れた需要を発掘することに成功した例もある。みんなのミクうた、ボーカロイド幻想狂気リンク、感性の氾濫β。これらは著作権上の障壁や、需要の少なさ、そもそも認知されていなかったなどの理由からメジャーな音楽市場に流通しなかった音楽ジャンルであり、ボーカロイドシステムを通して再配置されることによりその潜在的需要を刺激した。
 ここでオタクと呼ばれるカテゴリーに属する人間の定義について考えてみる。かつてのオタクといえば趣味とした特定の文化空間に対して徹底的なアクセスを行う人々を指し示していた。しかし現代ではネット上の記憶メディアを利用した肥大化により空間自体が人間の持ちうる検索能力を遥かに超え始めていることも手伝って、特定のジャンルでさえも徹底的に精通するということが難しくなりそのような過剰アクセスの仕方は例数自体が減少した。
 代わりにオタクという単語が指し示す対象は複雑過ぎる特定文化の子空間にして発展途上である文化に比較的浅くアクセスする人々へと移った。例えばアニメ、ラノベ、アニソン、ボカロ、声優。これらの文化はかつてのオタクのように広く深く触れられるよりも、狭く浅くアクセスされることを目的として成立している。言及対象を絞ることで空間内部での相互コミュニケーションを簡易化し、言及の際に把握しなければならない複雑度、情報量を縮減している。
 現在のオタクはかつてのオタクとまったく反対の特徴を持つ存在なのだ。
 初音ミクの衰退はこの新たなるオタク像を念頭においた上で、『初音ミク』という単語への言及を減らすことが鍵となる。すなわち初音ミクという子空間内部でのアクセス簡易性を阻害し、親空間にあたる音楽への参照を妨害するような言動を空間内部の要素たるコミュニケーションを通じて起こすということだ。しかし人が単独で行いうることは限られており、空間全体の傾向として特定の行為を個人個人が選択することを推奨する必要がある。


 では特定の行為とは何か。端的に言えば積極的な老害行為である。
 ここでは老害という言葉を本来とは違う意味で使っている。本来は高齢者たちが実権を握り、若年層が充分に活動できない状態を指し、またネット上で未熟さを指摘された者が相手の年齢とは関係なく発する罵倒語として使われている。しかしここでいう老害とはジャンル内での高齢者、即ち比較的古参のユーザーを指し示し、その行為による新参のユーザーへの参入阻害を示す。少子高齢化社会において顕著に見られるようになった単語であるが、円滑な世代の交代が行われず、組織の新陳代謝がはばまれる状態が問題であるという前提に依っている。そのため新規参入を必要としない、組織を構成員とする団体などではその領野の独占を問題視することはあっても老害といった問題意識は存在しないものと思われる。
 人がその構成要素となる以上、文化空間毎の人員の新陳代謝の必要性は前提として良いと考える。先述のモデルを元にこの行為を説明するなら、あくまで発展途上文化でしかない空間をあたかも先進文化であるかのように扱うことである。

1,空間内部に古典作品を定め、その視聴を新規参入の課題として強要する

 共通の話題を確保することでコミュニケーションを成立させるためと理由付けることもできるだろうが、それらが最初期の作品群であるメリットはない。何故ならそのような過去作はほとんどが未成立文化の時点での作品であり、新規性をシステムから供給していたため親空間内の作品との差異がまず認められない。古参の人間の感傷を除いて客観的に評価した時、その曲はありふれた特徴しか兼ね揃えていないのである。また発展途上文化として成立して以降の作品であっても、その作品を踏襲した上で尚且つクオリティの上回る作品がすでに空間内に存在する可能性が高い。
 結果として新参者への障壁、かつ新規の曲群へのアクセスを阻害することになりシステムそのものの価値を損なうことが出来る。

2,作品を通した親空間内への言及を糾弾する

 ボーカロイド文化の子空間としての価値を親空間内コンテンツの再配置と仮定したことから導かれる。ボーカロイド内部の楽曲群についての音楽ジャンルを議論することや特定の実在アーティストに言及することを糾弾することで、親空間へのアクセスを阻害する。特にこれは楽曲を楽曲そのものだけから評価するべきというニュークリティシズムの立場や、作者に失礼だという倫理的な方向性で議論が組み立て易い。ちなみにその善悪は未だ賛否両論な問題であろうがもちろんこの議論の範疇ではない。この議論においては何らかの楽曲に似ているという言及がオリジナリティの欠如を指摘するように聞こえるというなら、実際にオリジナリティに乏しいか否かという事実とは無関係にコミュニケーション上においてしか、その正否を問題にしないものとして扱うためだ。善悪も同様である。
 対する客観的事実として、ひとつの楽曲やボカロPからコミュニケーションを派生させて他ジャンルへと伸ばしていくことは、その空間内のアクセサビリティを向上することに貢献する。そして繰り返すことになるがそのアクセサビリティの延長上にある親空間への参照可能性こそを唯一の価値と仮定した。

3,親空間内部作品と似ている楽曲を糾弾する

 一見すると、2と矛盾しているように思えるが空間同士のつながりを断ち切るという意味では同じである。親空間内作品との類似はモデル構築段階で暗黙に前提としたが、事実として作品の制作において何らかの文脈を踏まえ、影響を受けることは無意識的にせよ避けられないことだと思われる。独自性の過剰な追求は子空間が発展途上文化であるままに先進文化として扱うことであり、親空間なくして空間独自の発展を求めるものである。これは十分なクリエイターの層の厚み、過去作品の厚みがあって初めて可能になることであり、消費ユーザーの成長さえも待たなければ、前衛的に過ぎた文化として需要の確保が上手くいかなくなると予想される。

4,ニッチ市場への需要を自意識と結びつける

 需要と供給さえ釣り合っていればその市場は成立する。しかし文化はそれでは成立しないと本論は主張する。文化は常に需要と供給の成長を求め、かつ市場の拡大も必須であると考えるからだ。ついては現状を維持する文化は必ず衰退する。特に文化がニッチであること自体を好む傾向が空間全体に定着すれば、発展途上文化は未成立文化まで退化することさえありうる。

5,二次創作(=子空間)の阻害

 どの規模、どの段階からが空間であるかという言明はあえて避けたが、厳密には一人の作家がひとつの作品を作り、それがコミュニケーション上で評価された時点からであると定義される。個性的な作風を持った同人作家の作品は例え二次創作であれ、親空間作品の変換可能性を持ち空間と定義することができる。しかしこれまでは少人数に支えられる空間を意図的に取り扱わなかった。人の寿命と文化の寿命に関連性を持たせないためである。
 子空間の生成は空間内部の複雑度を維持したままに空間を参照した際の複雑度を上げる。即ちコンテンツ自体の拡大と同様の効果を示す。これが空間内部の複雑度を維持したままであれるのは、空間内コミュニケーション上においてその空間の子空間への言及もその空間の親空間へのそれ同様、ある程度まで退けることが可能だからだ。このことから帰結的に子空間の巨大化と親空間の巨大化は必ずしも一致しないことが言える。ではどうして二次創作の阻害が空間の発展の阻害につながるか。二次創作側(=子空間)からの参照が失われるためである。

6,部分空間(=子空間)の阻害

 5と同様の理由から。ただしここでは空間内部に発生するジャンル分化を対象としている。作品群間にリンクを作るようなタグ付けひとつからでも部分空間の生成は可能だ。そのリンクや括りが煩雑だったり重複が大きすぎない限り、それらによって空間内のアクセサビリティは向上する。
 『カゲロウプロジェクト』というジャンルもこのカテゴリーに属する。それは自然の敵Pがニコニコ動画に公開した『人造エネミー』に端を発する、楽曲中で語られる物語を軸として数人のクリエイターによって展開されるマルチメディアプロジェクトである。ボカロ空間に内在しているように語られることが多いが、その変換可能性から子空間であるといえる。しかしその文化システムは自然の敵Pという人格を介しており、言ってしまえば彼の人格としての死とともに『カゲロウプロジェクト』という文化は終焉するだろう。個人の人格寿命と文化の寿命が結びつけられてしまうのは、文化という言葉にそぐわないように感じられるが、それでもそれは未成立文化として確かに成立している。
 親空間としてはロック、ラノベ、ノベルゲーム、そしてボカロなどが上手く混合されている。しかしながらカゲプロ空間においては親空間への言及をある程度まで退けることが可能となっており、また二次創作によって子空間を形成することも行われている。言及の複雑化の速度は黎明期のボカロ空間を想起させるほどであるが、空間そのものはあまり大きくない。拡大を続けているのはあくまでも二次創作の子空間である。
 この子空間が今後、具体的には親空間の衰退後。発展途上空間へと変わるかどうかは本論の観点からとても興味深いが、本論におけるモデルは未来予測のためのものでなく、現状観察のためのものであるので先を論ずることはあえて断念する。
 さて、目的に戻って『カゲロウプロジェクト』を捉えてみると、その空間をボカロ空間から疎外する。即ち言及を阻害することこそが必要であると言える。「カゲプロのパクリ」といったような発言に一々噛み付き、ボカロを介したカゲプロへの言及を糾弾する。特に初音ミクから切り離すようなコミュニケーションを意識することが肝要である。

7,空間そのものの挙動を記述する言説の固定化

 文化システムが変化し続けることを前提とすれば、空間全体がひとつの像に固定されることはない。しかし言説の側からの作用で消費ユーザーの意識を固定化し空間の挙動を規定することで、文化システムは衰退するものと考えられる。即ち、本論である。
 ここに『初音ミクを殺すには?』という後ろ向きの問いかけを、あえて選択した理由がある。
 空間を議論し尚且つその空間の存続を図るのであれば、その議論は直ちに解体されなければならない。議論自身こそ空間内部の要素であるため、その議論は他者の言及を介して空間の挙動を固定化してしまう。それを避けるために他者はその議論に力を与えてはいけないし、どこかで梯子を外さなくてはならない。
 しかし幸いにして、僕らの目的は空間の破壊だ。
 だから声を大にして言おう。この言論こそボカロ界の中心的な位置に収まるべきだと。その時、初音ミク死ぬだろうと。あまねく言及は鋭さを失い、システムの新陳代謝は上手くいかず至る箇所の歯車がきしみを上げ始める。古臭くなったイメージと遺跡のように積み上がった楽曲群はあたかも情報宇宙のダストのように名も知られずに朽ち果てるだろう。君らが本論への言及を繰り返し、内容を実践することで、僕らはひとつの文化を殺すのだ。
 誰かが祈りを込めて紡いだ歌詞も、愛にさえ代えられない作品を彼女の足元に差し出した幾千ものクリエイターの記録も、電子を伝う歌声にデイジー・ベルの響きを聞いて夢見た邂逅の未来も、すべてがここに途絶えてしまうのだ。
 それが僕らのやろうとしていることだ。

 


【七】結論

 

 果たしてボーカロイドオワコンなのだろうか。僕らは彼女たちの作り上げた創作空間が縮減し誰もが見向きをしないものへと堕する未来を、上手く思い描けるだろうか。例えば同じようにニコニコ動画を介して拡張した東方という文化システムと比較した場合はどうだろう。艦これは?ツイッターは?それらは本当に、いつか廃れる日が来るのだろうか。外的な圧力もなく代替品もなく。海辺の岩が波に洗われて少しずつ風化するように、いつかひっそりと消えてしまうのだろうか。
「さよなら……」
 文化同士を比較したところからはっきりとそれらの差異の輪郭を把握し、その差異が何を産み出しどのような影響を文化空間に与えるのか。まずはその視野を確保するところから始めて文化を殺すという方法論までたどり着いた。置いた仮定はたったひとつで、それは文化の機能的価値だ。ボーカロイドという存在を通して僕らが受け取っている価値とは何か。それがボーカロイドでなくてはならなかった、他の何者でもなく彼女らを通してしか得られなかったものは何かと突き詰めていくと、僕はあの仮定に辿り着く。
 もし仮に、ボーカロイドが顔を失ったならば。僕らは彼女を愛せるだろうか。彼女らが声を失った時、抱きしめることを躊躇わないと言えるだろうか。
「……嘘吐き」
 僕らは価値を問いただす時に来ている。正確には問われ続けている。多すぎるコンテンツに目移りしながら、埋もれる文化に黙祷を捧げる。新しいものが良いとは限らないけれど、変わらないものはすぐに忘れられてしまう。忘れられないためにはそれを愛する僕らが叫び続ける必要がある。
 価値を保証するのは僕らだ。
 僕らがボーカロイドを欲することをやめた時、それは失われるだろう。ならばその消失も隆盛も僕らの責任で、僕らのエゴで決められるはずだ。ボーカロイドオワコンだというのなら、それは間違いなく僕らのせいなのだ。変化を拒み続けて本当の価値を見誤った僕らのせいなのだ。
 だからボーカロイドを生き返らせるのも僕らの役目となる。
「ただいま」
 二度と間違えないように一歩一歩確かめながら、僕らは何処かへと歩き始めなければいけない。それは何処かに目的地があるような旅ではないし、歩くこと自体が理由となる散歩でもない。正しい方角に進まなければならないけれど、常にそれは変わり続ける。そんな進化の歩みだ。
 気休め程度のデータの羅列や信仰告白染みた賛美歌は聞き飽きたし、懐古趣味の思い出話なんて何の生産性があるのだろう。そんなことを考えながらこの文章を組み上げた。
 とは言え、地獄を指し示し続けるこのコンパスが何かを産み出せるのかと問われてもまた首を傾げるのだけど。
 だって歩き出すのも、針を叩き折るのも君らなのだから。

 

間接的に『補論』に続く

補論 - nemoexmachina’s diary

 

参考文献:ゲオルク・クニール,アルミン・ナセヒ(1995)『ルーマン 社会システム理論』新泉社.

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。