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【超ボーマス】補論【頒布予定批評】

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布した機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。次巻以降、及びTECHLOIDの宣伝混じりに公開継続中。

 

 

(本論に対しての『補論』です。先に本論を読むことをお勧め致しますが、特に読まなくても土台は理解可能です)

初音ミクを殺すための101の方法(前半) - nemoexmachina’s diary

初音ミクを殺すための101の方法(後半) - nemoexmachina’s diary

 

 

 

 本論において取り上げなかったいくつかの外延的な事柄について言及する。

 

1,個人的価値と社会的価値について

 価値を二つに分けてひとつをブラックボックス化し、もう一つの挙動を客観的に観測可能なものとする。社会システム理論において人間(=心的システム)をコミュニケーションから切り離し、ブラックボックス化したのと同じように。価値の一つ目は個人的価値でそれは個人の内面において測られる価値だ。外部からはその存在をリアルに計測できず、どんなに言葉を尽くされたとしてもその本質までは伝わらない、あなただけの価値だ。もう一つは社会的価値でコミュニケーション上において客観的に計測される評価の高さの総計を示す。実際には本人らが内心(=個人的価値)どう思っていても口や文からのみ示される価値である。
 このように分けて社会的価値のみを扱うことで、作品の価値をいくらか客観的に測ることが出来る。その客観性は第三者から見ての客観性をかなりの部分まで保証する。すなわちタイトル名さえ知らないが他者の作品への言及のみを閲覧する第三者によって推測されるだろうその作品の価値である。どれほどの人格がその作品へと言及しているか、言及内容、美点と欠点、それらを賞賛したり貶めたりする言葉の熱意。もちろん言及内容からの印象は読み手によって違うだろうため、いくらかは曖昧だろうが客観的なデータにするとしてこれほどに正確なものは他にないだろう。
 対して、個人的価値は救いようがないほどに客観性を持たない。まず個人的な価値それ自体が作品そのもの以外から、様々な影響を受ける。ストーリーを読むときの体調、機嫌、環境の差は有意に感想の良し悪しに影響する。しかもその感情は誰かと共有することも出来ず、宗教的体験と大差なくこれを絶対視することは神秘主義のそれに近い。
 このように価値を二分した上で作品の価値というものを改めて定めると、それは事後的に計測される社会的価値だと言える。即ちそれはあくまで作品が人々に受け入れられたあとの感想を計測した結果であり、作品そのものから受ける個人的な価値とは何ら関係ない統計的事実なのである。
 しかしそうすると熟練の消費ユーザーが特定の作品についてこれは売れると予測を立て、その予測が概ね有意に正確であるのはどうしてだろう。これは個人的価値がある程度の客観性を持ち、いわゆる一般的な価値観とその人の価値観の符合が大きいためではないか。それならば作品の価値に対しても一般的価値観からの評価を基準にして事前に作品そのものの価値を計測することが可能なのではないか。そのような反論が当然に予想されるがこれも事後的なデータからの統計的予測として説明ができる。つまり売れた作品、評価された作品の特徴を機械的に取り出してサンプルとの一致度合いから予測内容を決定するのである。もちろん実際には本人の個人的価値が大きく影響しているだろうが、その価値基準まで含めてテストケースから学習したものと考える方が客観性の高い説明を可能にする。
 すべての作品は価値を内包しない。それは実際に多数の人間に消費されたあとに、そのコミュニケーション上において観測されるものなのだ。


2,二つの価値の変換可能性について

 これら二つの価値は互換性があるのだろうか。正確なところをいえば心的システムと社会システムの関係と同様に、これらは構造的カップリングの関係にあって社会的価値は個人的価値にのみ誘発されると言える。もう少し個人の実感に基づいて説明するなら以下のようになる。
 あなたの個人的価値は社会的価値に変換されうる。それはあなた以外には絶対に出来ない、あなただけが顕現できる価値だ。その方法は表現することを除いて方法はない。あなたはあなたの感動を言葉にし、比喩を重ね、行動に示すことで、あなたの感じた価値を誰にでも認められうる価値へと変換できるのだ。
 コミュニケーション上の評価を社会的価値としたが、コミュニケーションにはもちろん非言語的、非直接的なものも含まれている。例えば消費行動であり布教行為。何なら毎日特定の時間にその作品名を絶叫するといった行為ですら構わない。そのコミュニケーション上の価値を観測することで第三者はその作品の価値を予測する。もちろんあなた自身への評価もその予測に影響する。あなたが普段から滅多に作品を評価しないなら、初めての熱狂的評価を表現することは客観的に多大な価値を持つ。ここで重要なのは変換された個人的価値は他の誰の評価でもなく、あなた自身が評価した価値であり、それはあなただけにしか表現し得ないものであるということである。あなたが表現しない限りその個人的価値は秘められたまま存在さえなかったことになるのである。
 では逆に社会的価値が個人的価値へと変換されることはあるのだろうか。まず一つにコミュニケーションのための作品消費がそれに当たる。即ち自分の周りで流行っているから話を合わせるために作品を消費するといった流れである。この時、作品は作品そのものの価値以上に話題についていけるという付加的な価値を持つ。
 二つ目は二次創作による読み替えである。作品そのもの以上に作品を介したコミュニケーション上の二次創作群に影響を受けて作品の見え方が変わり価値が付加されるといった流れである。これは本論の方で子空間として扱ったが空間内部のコミュニケーションから派生して発生するため子空間としては特殊なものと位置づけるのが適当かもしれない。話を戻すと、二次創作には直接的な作品制作を介しないものも含める。例えば艦これの検索汚染や作品中登場人物の口癖が流行るといったコミュニケーション上への影響はすべてこれに含める。
 社会的価値が個人的価値へと変換されるこの二つのあり方をよく示す例が淫夢ネタと呼ばれる特定のコミュニケーションだ。これはとある作品中のセリフやガジェットを細部に至るまで参照しながら会話やコメントの端々にそのリンクを混ぜるようなコミュニケーションで、そのネタを元にした作品群も多く存在する。このコンテンツが特筆に値するのは、一次作品に当たる『真夏の夜の淫夢と呼ばれるゲイ向けアダルトビデオ作品群そのものの存在を認知さえしていない人々にもアクセスされている点である。一次作品と二次作品の空間比率がこれほど大きい物はまずない。このコンテンツにおいて人々は例え同性愛に興味がなくともコミュニケーション上の必要や二次創作的な会話からの付加価値を通じて一次作品への評価を高める。


3,社会的価値の均一性について

 社会的な価値をコミュニケーションに定めることで得られる利点に、その価値の質と量をどちらも考慮に含めることが出来る点がある。
 まず質について。ある作品についての学問的に有意義な考察が提出されたとする。しかしそれが誰にも読まれなければもちろんその考察の社会的価値はほぼゼロだ。さらにそれが読まれたとしても殆どの人に理解されなければ同様。例えその考察がどんなに正しく、示唆に富んだものであったとしてもだ。逆に語彙の貧弱な支離滅裂で論旨も一貫しない、しかも作品の読解を誤っている感想があったとしよう。これを読んだ人間がその感想に感銘を受けてその作品への評価を変えるコミュニケーションをするなら、その低俗な感想は前述の高尚な考察以上の社会的価値を持つのである。もちろん作品をすでに消費した別の人がその低俗な感想を誤っていると判断して、それがコミュニケーション上において表現されるなら、その感想の社会的価値は再び変化するだろう。
 しかしここで重要なのはコミュニケーションの内容が正しかろうと誤っていようと、それがコミュニケーションにおいて現れる限りにおいてしか社会的価値として成立しない点である。更に言えばどんなに言葉を尽くした感想であれ、それ以上に一枚のキャラ絵が更なるコミュニケーションを誘発するなら、後者の方が社会的価値は高い。つまり批評や感想を二次創作と同列の価値として考えることが出来るのだ。
 次に量について。作品は話題性が高く、言及しやすい内容であるほど人口に膾炙する。例えば作品そのものの知名度は低くとも印象的なセリフや一場面だけが切り抜かれてオマージュや改変ネタが派生するといった流れである。その作品そのものに直接言及せずともそれらのコミュニケーションは作品本体へのリンクとして機能する。それが次なるその作品へのコミュニケーションを発生させるならそれは社会的価値である。


4,批評の価値について

 ここで批評について一度触れておく。この社会システム的な捉え方において批評の価値は正しいことではない。次なるコミュニケーションを産み出す限りにおいて、またそのコミュニケーションが作品への評価を高める限りにおいて価値が認められるのである。難しく高尚であることも簡易で低俗であることもそこに優劣はない。さながら空を飛んで生きるか地下に潜って生きるかの違いであり、それぞれに影響を与える対象が違うだけである。
 この文章とてそうである。この文章の読者諸賢が次にコミュニケーションを行うこととその影響の他一切、この文章に価値はない。
 つまるところ僕は、批評は二次創作であると主張するのだ。

 アナザーストーリー、読み替え、作品空間の拡張。それ以上でもそれ以下でもない。また本論でも記述したが、ひとつの批評が特権的な地位を与えられることにも否定的な立場を取る。
 ただしそれは批評が政治的な力を持たない限りにおいてである。例えば聖書やコーランの解釈は直接に国家間の関係に影響する。マルクスの解釈を巡って反目し合った社会主義国家がある。そのような緊張関係の元に解釈の価値というものを考えると、それは作品価値とはまた別のベクトルの政治的価値を産み出してしまう。この論において扱っているのは作品そのものの純粋な社会学的価値であり、政治的価値、経済的価値とは切り離されるものである。
 これは本論で取り上げなかったが、ルーマンの社会システム理論でいうところの個々の機能的部分システムの二元コード化にあたる。例のごとく乱暴な大雑把さで言えば、それぞれに固有の価値ベクトルが部分システム間では互いに理解し得ないものであるということだ。ここでは社会的価値のみを取り上げてコミュニケーションを構成しているが、同じ作品に対して政治的なコミュニケーションにおいては政治的な価値が、経済的なコミュニケーションにおいては経済的な価値が浮かび上がってくる。それらは簡単に比較できるものではなく優劣が付くものでもない。
 批評が政治的なものとして機能する限り、それはこの議論から外れたものとなる。その意味でまったく政治的でない、あるいは経済学的でない、あるいは宗教的でないといった批評はないのだろうし、すべての批評に優劣はないとする僕の主張は誤っている。しかしすべての批評が重大な政治性、法外に高い市場価値、神々しいまでの宗教性を持つわけではないのだから、その範囲においてまでは僕の主張は有効だと考える。


5,作品が取るべき戦略について

 コミュニケーションを作品の社会的価値とした。この時クリエイターが作品制作の際に取るべき戦略がいくつか定まる。消費ユーザーにとって作品消費の上でその作品をコミュニケーションの俎上に上げることはコストがかかる。金銭的なコスト以上に時間的コスト、そしてそれ以上にコミュニケーション的なコストがかかる。即ち相手に聞くだけの価値がある作品を提示出来なければ、それは結果として人格への評価そのものが損なわれる危険性を孕む。逆に言えば作品そのものを本人があまり評価していなくとも、別の一般的な価値がその作品に関して提示できればコストをいくらか抑えることが出来るのである。最近流行っているらしい、有名な人が制作に関わっているらしい、目新しい要素を内包しているらしい。そういった価値である。
 となればクリエイターは話題の俎上に上がるだけの何かを積極的に作品に付け加えるのが戦略として妥当なのではないだろうか。これの一部は話題性やコンテンツ力、フックと呼ばれる。もちろん中身のない記号的価値だけの作品ではいけないだろうが、話題性を提供するというのは作品が作品相応であれ不相応であれ、きちんと流通するための最低限のラインではないかと思われる。
 例えば初っ端からよくわからない自分語りを始めてみたり、大して理解してない学術的な後ろ盾を用意してみたり(参考文献がたったの一冊きり)、メジャーなものに下手な皮肉を撒き散らして過激な発言をしてみたり、101も方法を用意していないのにタイトルで誇張してみたり(しかもマイナーゲームタイトルのパクリである)、こんなふうに忘れられていた伏線を回収してみたり。


6,話し言葉的なコミュニケーションについて

 古い時代においては文字として伝わらなかった物語として、口承文学が最も多く流通した。慣用句や和歌が独特の言い回しや韻に従うのも暗記しやすさや口に出しやすさを優先したためだろう。もちろんそれらの短い言葉の裏には追加して説明するべき意味が多く含まれており、作品単体では上手く意味を読み取れないことが多い。説話にしろ、神話にしろ、そこまでが語られることを意図してあえて抽象的な事柄だけをストーリーの形にしている節がある。
 何故なら書き言葉と違って、口に出した言葉は声にした端から消えていってしまうものだからだ。すべてを書き留めることも、聞き手の理解に合わせて同じストーリーをくり返すことも難しい話し言葉を介する物語は、特殊な制約を受ける。それらは誰もの頭に残りやすい形に特化し、実用性のある教訓や帰属意識の強化といった機能、無意識に訴えかけるイメージなどを特徴として持つ。
 対して書き言葉における文学は何度も繰り返し読まれることや前項に戻ることを前提にする構成のストーリーを可能にする。人一人に語りきれない物語量でも構わず、一度に理解できない情報量を詰め込むことも許される。特に現代のネット社会においては紙のコストさえなくなったため、大量の文字が僕らの元へと情報を運ぶ。
 しかしネット上のそれは書かれた文字でありながらにして、言葉そのものの機能や特徴は話し言葉のそれへと後退している。僕らが文字として残したはずの情報は履歴としては残るものの、発した先から話し言葉同様に誰の目にも届かない画面外へと押し流されていく。ツイッターが最も象徴的であるが、書き残した言葉が再び参照されるためには他者のリツイートやリンク、自分の再掲示によるしかない。ネット上のコミュニケーションはまさに、言及が産み出す次なる言及が情報を保存しない限り、その情報は取りこぼされてしまうような空間なのだ。
 僕らはこの言語空間において、極度に忘却を恐れなければならない。検索結果に表示されないリンクの孤島となることを。言及の輪から外されてしまうことを。
 それは即ち、初めから存在していなかったことと同義なのだから。

 

参考文献:ゲオルク・クニール,アルミン・ナセヒ(1995)『ルーマン 社会システム理論』新泉社.

 

 

注)この文章は『ボカロ等合成音声技術総合サークルTECHLOID()』が超ボーマス一日目(4/25)G32において頒布する予定の機関誌『DeVO vol,1』に寄稿したものです。宣伝混じりに先行公開。